葉

かぐや姫の里を訪ねる
探訪 2008年12月20日   
 
富士のかぐや姫伝説
 数々の伝説を持つ霊峰富士。その富士を擁する麓の富士市にも富士山に関する様々な伝説があるといいます。
 その伝説の中に、誰でも知っている赫夜(かぐや)姫の話があるというのは、実は私は初めて聞いたことです。

 一般に知られているかぐや姫の伝説は、次のような話です。

「ある里に、おじいさんとおばあさんが暮らしていました。ある日おじいさんは根元が光り輝く竹を見つけました。それを切ってみると、中に玉のようなかわいい赤ちゃんが入っていました。二人はその赤ちゃんを大事に育てたところ、娘は美しく成長し、かぐや姫と呼ばましれた。その美しさは国中に広まり、やがて五人の貴族が求婚しました。かぐや姫は貴族達に無理難題を言って世にも珍しい宝を集めさせましたが、その誰の願いも聞き入れず、とうとう月に帰ってしまいました。」

 こうした伝説は、奈良県広陵町、京都府日向市、香川県さぬき市、岡山県倉敷市、広島県竹原市、鹿児島県さつま町などで語り継がれ、わが街こそ本当のかぐや姫伝説の地と主張しているそうです。

 しかし富士市のそれはちょっと違います。

「美しく成長したかぐや姫に、一人の国司が求愛しました。国司はやがてかぐや姫と暮らすようになりました。しかしある日、かぐや姫は自分が日本で一番高い山の仙女であることを国司に打ち明け、不老不死の薬が入った玉手箱を残して富士山に帰ってしまいました。国司はかぐや姫の後を追って山に登りました。そして不老不死の薬を飲み、二人で末永く暮らしました。以後、その山は“不死山”と呼ばれるようになり、後に富士山という名に変わりました。時折山頂から上がる煙は、その時の玉手箱の煙だと言われています。」

という話だそうです。

 この伝説にはもうひとつ別の話が伝わっており、それは「かぐや姫を追って山に登った国司は、姫の本当の姿を見て驚き、山頂の池に身を投げて命を落としました。」という結末になっているそうです。いずれにせよ、かぐや姫は翁の元を去る時、名残を惜しむように振り返りながら坂道を上がったということです。
 
かぐや姫伝説の地を訪ねる
 富士市やかぐや姫伝説を調べていくうち、とても妙味深いことが分かってきました。富士市には、かぐや姫伝説にちなんだ地名が多く残っているというのです。

 例えば、竹取翁(おきな)と嫗(おうな)が暮らしていたところは“竹採屋敷”、翁が竹籠を編んでいたのは“籠畑”という土地、翁と嫗がかぐや姫を迎えたという場所は“竹採塚”、かぐや姫が富士山に帰る時に通ったという“囲いの道”、かぐや姫が里の人々に別れを告げ翁を振り返ったのが“見返し坂”などです。土地の人々は、竹採塚の辺りから富士山頂へ延々と続く小道があったと信じているそうです。何ともロマンチックではありませんか。

 幼少の頃に読んだかぐや姫の絵本の思い出から実に数十年…。私はその長い時を隔てた今、かぐや姫の伝説を追って、富士市に伝わるかぐや姫伝説の地を訪ねることにしました。

 12月20日土曜日。朝、出遅れてしまったので、富士市に入ったのは午前10時近くでした。とてもよい天気で、真っ白い雪の衣装を纏った富士山が青い空にくっきりと映えていました。実はこの富士山の画像(と言うより、この方角から見た富士山)にはある秘密があるのですが、それは後にご紹介することにします。


            富士マリンプールの入口辺りから見た富士山

比奈の里
 富士市のかぐや姫伝説が伝えられているのは、「比奈(ひな)」という土地です。
 比奈(ひな)という読みは、「姫名」であり、「雛」とも書くことができます。雛はヒナと読んで、小さな人形とか美しい少女という意味がありますので、「比奈」はかぐや姫の物語伝承と深い関 わりが感じられる地名であります。



 竹取の翁が住んでいた竹採塚は富士市立吉原第三中学校の東にあるというので、まずは吉原三中を目指して車を走らせました。
 途中、御崎神社があり、その脇に御崎坂という石標が立っているのが目に留まりました。見ると、「姫名の里」という銘を彫った石と説明板も立ててありました。

 説明板に刻まれた文章を読みますと、昔この辺りは浮島沼という沼地になっており、この御崎神社の場所は岬になっていたそうです。八世紀に“岬”が“御崎”と書かれるようになりました。この御崎には東西の街道から北に向かう坂道があり、この坂を御崎坂と呼ぶようになったそうです。いよいよかぐや姫伝説の地に来たんだという思いがしました。


              御崎神社(左)と御崎坂(右)

竹採塚と白隠禅師の無量庵
 御崎坂を上っていきますと、まもなく瀧川神社という大きな神社の鳥居前に来ました。
 初めはここに竹採塚があるのかな?と思ったので辺りを探してみましたが、それらしい史跡はありません。ちょうどそこに二人のおばあさん達がいましたので尋ねてみたところ、鳥居前の十字路を東に200mほど行けばすぐに分かるようになっているよ、と教えてくれました。

 車で移動しますと、そこはちゃんと整備された「竹採公園」になっていました。私は鬱蒼と茂った竹藪の中を探して竹採塚を見つけなければならないと思っていましたので、この地が公園になっていることに驚きました。しかも園内に竹採塚も見返し坂もあるというのですから…。


        竹採公園 手前は駐車場で、右奥に地主さんの邸宅があります

園内(無料)に入りますと展示棟があり、いくつか資料が展示してありました。



そこへ先ほどとは別のご婦人二人が散歩にやってきましたので、かぐや姫伝説や坂の位置について伺ってみました。
するとお二人は下田から来たという私にずいぶん驚かれた様子で、辺りの様子を詳しく教えてくれました。


             地面に地図を描いて教えてくれました

私が「見返し坂と手児の坂はどこにあるのか、教えて下さい。」と言って手持ちの地図を見せますと、おかしな事を言い出しました。

「その手児の坂は、“てご”でなくて“たご”と読むんだよ。そこの神社の前を南に下り、次の角を西に行くと豆腐屋があるから、そこの角を右に曲がって行きなさいよ。すると公園があって、案内板が立っているから読んでご覧なさい。坂のことが分かるよ。」

するともう一人の方が、

「あら、私が知っている手児の坂は、違うわよ。公園じゃなくて、根方街道からもっと南に下っていくとある坂でしょ? 坂の名前を彫った石が立ててあるじゃないの。」

と仰います。どうやら2人でそれぞれ言っている坂が異なっているようです。同じ名を持つ坂が二つあると言うことでしょうか。何だか狐に摘まれたような気持ちになりました。

坂は探しながら行ってみることにして、ご婦人方と別れました。別れ際、「この木は何だか知っている?」と聞かれました。

「不老長寿の木ですよ。言われないと気がつかないですけどね」

という話です。そういえば富士市のかぐや姫伝説では、国司は最後に富士山に登って不老不死の薬を飲んだのでした。その関係から、ここに“不老不死の木”が植えられたのでしょう。それにしても、見る人にとっていったいどんな効用のある木なのでしょうか。


                 “不老不死の木”だそうです

ご婦人方と別れ、いよいよ探索を始めました。目的は、竹採塚と見返し坂です。庭園として整備された竹藪地帯を歩いていきます。



竹採塚を探して
 と、道の脇にこのような穴が開いていました。間歩のようですが、周囲の丘は高くないので、こんなところにあるのは不自然です。芋の貯蔵穴でしょうか。中は5mほど奥で崩れているようでした。



探していた竹採塚は、そこから10mほど歩いたところにありました。想像していたよりずっときれいで分かりやすいところにあったので、管理をしている人に感謝したくなるような思いがしました。


              この竹採塚を見ることが第一の目的でした 

いつごろここに置かれた石かは分かりませんが、ちゃんと「竹採姫」と刻まれています。ここでかぐや姫が誕生したと思うと、感無量でありました。





白隠禅師の墓
 白隠禅師、その高名な僧侶を、私は知りませんでした。ここ竹採の里と、どのようなつながりがあるのでしょう。
 そこで調べてみました。
 白隠禅師は、正しくは白隠慧鶴(はくいん えかく)と称し、貞享2年(1686年)生、明和5年(1786年)没。臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧です。500年に1人の名僧とまで言われ、「駿河には過ぎたるものが2つあり 富士のお山と原の白隠」などと謳われました。
 駿河国原宿(現静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれた白隠禅師は、15歳の時、原の松陰寺で出家して諸国を行脚して修行を重ねました。24歳の時に鐘の音を聞いて悟りを開きましたが満足せず、修行を続け、のちに病となりながらも回復し、信濃(長野県)飯山の正受老人(道鏡慧端)の厳しい指導を受けて、悟りを完成させました。 以後は地元に帰って布教を続け、曹洞宗と比べて衰退していた臨済宗を復興させました。現在も、臨済宗の主派は全て白隠禅師を中興としているため、彼の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦するそうです。
 現在、禅師お墓は原の松蔭寺にあって、県指定史跡となり、彼の描いた禅画も多数保存されているということです。

 ちなみに12月23日に長泉町の後藤さん率いる八十八ヵ所巡礼ツアーで松崎町の帰一寺を訪ねた折り、こんなことがありました。境内の経堂にある木像が安置してあるのですが、「それは聖徳太子が制作した像と伝えられています。」と和尚さんが教えてくれました。その史実は、白隠禅師がその著書に記しているのだそうです。思わぬところで松崎と白隠禅師がつながりましたので、驚いた次第です。

 さて、その白隠禅師は、ここ竹採塚の土地に無量庵という臨済宗のお寺を持っており、それは明治初年まで存続していたということです。


            祭壇中央の高い無縫塔が白隠禅師のお墓

見返し坂
 竹採塚を見て胸がいっぱいになった後、さらに歩いていきますと、見返し坂がありました。



細い坂道ですが、この坂を上りながらかぐや姫は翁や媼との別れを惜しんで富士山へと向かったのでしょう。しかしこの見返し坂は竹採公園の中に作られたミニチュアの見返し坂であるようです。本当の見返し坂はもっと遠い北の方にあるようです。

囲いの道
 竹採公園を歩いた後、いよいよ周辺を歩いてみることにしました。竹採塚のある竹藪の西に富士市立吉原第三中学校があります。その敷地がある辺りは、「かぐや姫」という字名が付いているそうです。そしてその脇を富士山に向かって上っていく道は、「囲いの道」と呼ばれているそうです。

昔は細い小径だったそうですが、今ではこのような広い自動車道になっています。



いよいよ見返し坂へ
 「囲いの道」を上り詰めるとそこは四辻になっており、さらに道は富士山の麓へと向かっていました。この辺りに見返し坂があるはずなのですが、どこも坂道ばかりなので、すっかり道が分からなくなってしまいました。

 そこで、四辻を過ぎた辺りで民家の庭先にいたご家族に聞きますと、その四辻の下が見返し坂であり、表示板もある、と教えてくれました。


          “囲いの道”を過ぎてもなお富士に続く道があります

お礼を申し上げて下ってますと、四辻から東に折れて下る道がその見返し坂であることが分かりました。


         とうとう訪ね当てることができた“見返し坂”です

この坂道を上って、かぐや姫は富士山に帰っていったのですね。感無量であります。



坂の下り口に、このような坂名標が立ててありました。ちょっと汚れています。「一万歩かぐや姫 夢の里コース」と書いてあります。かぐや姫の里を訪ねるウオーキングが実施された経緯があったのでしょうか。


         もう少し風情のある坂名標にしてほしいところですが…

富士山に帰るかぐや姫の姿
 初めて訪ねた土地ですので、あまり詳しくは探索することができません。2度3度と訪ねて歩く必要があります。
 最後に、富士山に帰ったかぐや姫の姿を今でも見ることができると聞いていましたので、その姿をみなさまにも紹介します。

ではよくご覧ください。左を向いて俯き、翁と媼に惜別の情を送るかぐや姫の立ち姿が見えるはずです。



え、どこかって? 下の画像中央に、左を向いたかぐや姫の姿が見えますでしょう?



今なお富士山からかぐや姫が里を見守っているがゆえに、富士市のここにかぐや姫伝説が生まれたのだ、と確信しました。

坂探しへ
 帰り道、竹採公園でご婦人方から聞いた坂道を訪ねてみました。
 車で移動したのですが、聞いた道順を辿っていくのはとても難しいことでした。なぜなら、この辺りは古くから開けた町のようで、道が狭い上に交差点が多いのです。「“手児の呼坂”があるのは大きな公園だよ」と聞いていたので、車で走りながら木立があるところを目当てに移動し、ようやく見つけることができました。

手児の呼坂
 やっと辿り着いた公園の一角に、手児(「てご」と読むと思うのですが、私に教えてくれたご婦人は「たご」と読んでいました)の呼坂と刻んだ坂名の標石がありました。人の背よりも高い、かなり立派な標石です。

傍らの説明板には、こう書かれていました。

「昔、このあたりに一人の娘が住んでいました。心やさしく美しいこの娘に村の若者達はほのかな想いを寄せていました。 ある夏の夕方のことです。松原川のほとりを散歩していた娘は、一人の若者と出会いました。笛の巧いこの若者は、十里木を越えてやって来たアイヌの若者でした。村の若者達は嫉妬し二人の結婚の邪魔をしました。娘は大変悲しみ、この坂の下で、いつまでも若者の名を呼び続けていたということです。 以来この坂を「手児(娘の意味)の呼坂」と呼ぶようになりました。」



 しかしここで不覚をとりました。通りかかったご婦人に「どこがその坂なのですか?」と尋ねたところ、

「呼坂は、ここから南に下って根方街道に出てしばらく行ったところにありますよ。」

という返事が返ってきたのです。そこで車でそちらの方へ行ってみました。

すると確かに坂はありました。しかしそれは、竹採公園で2人のご婦人が食い違った場所を教えてくれた2つ目の坂だったのです。どうも地元の人たちも「呼坂」が2つあることをきちんとご存じないような感じです。

呼子坂
 東西に走る根方街道(この道もいずれ調べてみたいものです)が南西に曲がる辻に、呼子坂がありました。ここにも立派な坂名の石標が立てられています。



この呼子坂は、治承4年の富士川の合戦の際に源頼朝が率いる源氏軍が付近の高台に陣を敷いた際、この坂で呼子の笛を吹いて軍勢を集めたことから名がついたそうです。

 しかし別の説によりますと、万葉集のにある「あづまじの手児の呼び坂越えかねて 山にはねむもやどりはなしに」 という歌から呼び名がついたとも言われています。いずれにしても歴史のある坂のようです。

 この手児の呼坂については、調べてみるともっと興味深い要素を持っていることが分かりました。
 「手児」というのは、本来は「幼女」のことだそうですが、「若い娘」や「若い恋人」の意味でも使われるそうです。それが古く万葉集の中で坂の風景として歌われることがあり、各所にある手児の呼坂が歌われているそうです。

 「手児の呼坂」については、ここ富士市の他にも、

・盗人坂(静岡市駿河区手越にある坂)
・盗人坂以外の静岡市駿河区手越にある坂
・岫(くき)崎(磐城山麓説、清見崎説)
・磐城山(薩た峠)越えの道(上道)
・清岩寺(富士市宇東川西町)の前の坂
・富士市今井にある坂
・宇津ノ谷峠
・難坂(蒲原)

などにあるらしい、ということです。いずれゆっくり精査してみたいと思います。

道標か
 地図を見ている時、「根方街道」という文字が目に留まりました。ここにある古い主要道のようです。呼子坂の石標の向かいに、道標らしき石標が立っていました。真ん中で大きく割れたのを繋ぎ合わせたような跡があります。
 彫りが浅いのでどういう道標なのか分からないのが残念でしたが、再訪する時に詳しく見てみることにします。この日は正午に富士宮の友人と待ち合わせることにしていたため、探索(というより散策ですね)はここまでです。次回はもっと事前調査をして、ゆっくり歩いてみることにします。


             根方街道の道標か(高さ80cmほど)

                                             
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