葉

十郎左ェ門の橇道を辿る〜後編
探索 2007年12月24日   
 
平場の謎
 明らかにこの平らな土地は特定の機能を持っていたに違いない。そこまでは分かる。しかしそれが何であったかを知る手がかりがないのだ。一切れの朽ちた木材でも湿気た炭でも残っていれば、ここが何かの作業や貯蔵の場所だったことが言えるのだが…。

 しかし、そうやって目を皿のようにして平場の遺留品を探す私を尻目に、しっかり観察物をゲットした人がいた。自然公園監察官の荻氏には、こちらの方が気になるらしい。枝ごと落ちていた樅の木の種子房である。一つ一つがかなり大きいので珍しいらしい。ふむふむ・・・。


      さっそくデジカメで記録する荻さん・・を記録する私

北には、さっき私たちが通ってきた十郎左ェ門の姿が見える。


         案外遠くに見えて、感慨を深くするのだった

くまなく探したつもりだったが、何も見つからない。しかたなく再び下降を始めた。



下降して見えてきたもの
 南斜面にはもう橇道は残っていないように思えたが、しかし慎重に探すと、果たして橇道はさらに下方に続いてることが分かった。


              橇道はまだ続いている!

橇道は南斜面の雑木林にくっきりと跡を残して下っていく。


              左右の山は、まだ深い

窪み通りに橇道をトレースする私を、先輩方はふふっと鼻で笑ってショートカットしていく…(ように見えたが、実際は温かく見守ってくださっていたのだ)。


    私を暖かく見守る先輩方

 と、峠のような部分に出た。ここで道は左右に分かれ、新しい展開を見せるのだろうか。



しかしその峠の左方は、急に落ち込む北斜面になっていた。もちろん道らしき踏み跡は見られない。少しだけ下ってみて、それが分かった。


      峠のようなコルのような、そんな地形だ

峠の左側は、このように急に深く落ち込んでいる。道はないと思う(たぶん)。


          峠もどきの北側は、深く落ち込む谷だった

引き続き、南斜面を下る。冬の木漏れ日は、風がないので暖かくさえ感じられる。いや、道を見つけることができて暖まっていたのは、私の心だったのかもしれない。


         冬の雑木林が目映いばかりの光に包まれている

 下の画像をご覧頂こう。道は手前左から下って中央部分で二度、三度、左右にうねり、南下している。大地に刻まれたその柔らかな弧が美しい。


            美しい道の軌跡を見せる南斜面


         左から下っているS字状のカーブが見えるだろうか

炭焼き窯跡の出現
 と、前方がゆるやかに広がったと思ったら明るく柔らかな陽光が目の前にあふれた。そしてその光の条痕の中に、南斜面で初めてみる石組みがあった。


            目の前が開け、光があふれた

下り始めて最初に見る炭焼き窯の跡だ。三方平の山頂から下ること約1時間後のことだった。


          放棄されて30年というところか

このように、炭のかけらも地面の色を染めるほど残っている。



すると、これを合図にしたかのように次々と炭焼き窯の跡が見つかったのだ。あ、そこにもある、えっ、ここにもある、という感じである。


           かなり形の崩れた窯の跡ばかりだ

結局、この後にこの道筋を下る間に数えた炭焼き窯の跡は、18だった。実に大きな数である。三方平の南斜面には、一大炭焼き窯地帯が形成されていたのだ。

杉林を通って
 三方平からここまで、ずっと雑木林を下ってきた。しかし炭焼き窯が見られ始めて間もなく、林の木々は雑木から植林された杉に変わった。標高が下がり、傾斜が緩やかになって人の作業する手を入れやすくなった、と言うことだろうか。


           雑木林が植林の杉林に変わった

 杉林とその中に点在する数多くの炭焼き窯跡を見た後は、道がこのようにごくありふれたシングルトラックの歩道に変わった。杉林の印象を柔らかにしている下草は、クマザサだ。

そしてやがて道は平坦な尾根道になった。しかしこれはまるで嵐の前の静けさのように、私たちを惑わす危ない罠だったのだ。


         山が穏やかな表情を見せるようになったのだが…
       
事情急変! 谷底へ
 私たちの行く先には、緩やかな尾根道が延びている。しかししばらく歩くと、左に、微かに別れる踏み跡があった。この分岐をどう行こうか?



「ソリで木材を曳いたのなら、下り傾斜が必要だったはず」という見解を採用し、ここは左に進路をとることにした。

しかし、これが大きな誤謬であることに気づくまでに、そう時間はかからなかった。

私たちの目前にまず姿を現したのは、こうした巨岩だった。

巨岩たちの魔窟
 最初に現れた大岩の上に立つと、血の気がすうっと引いいていくのが自分で分かった。もしかして、私は大変間違った道を選んでしまったのではないだろうか。そこには“道”というものはまったくないばかりか、急に落ち込む枯れ沢に迷い込んでしまったのだ。


            大岩の向こうに、“道”はなかった

 否応なしに狭い隙間に手がかりと足がかりを求め、下降していく。


            まだ土があるところはよい方だ

見上げると、左右と頭上にはこんな岩壁がそそり立っている。


            ひいいっ、押しつぶされそう

そしてこんな険しい谷間にも、炭焼き窯の跡があるのだった。おそるべし、古の人々の営為・・・。


        2つの石組みは、一つの炭焼き窯のパーツだ

 しかし私以外の誰もが「戻ろう」と言わなかったのは、山での経験が多いからか、それともこの先に何があるのか見たいという欲求があったからか。私は、怖かったし、不安は強かった。

実は「こっちの道、行こう!」とねだったのは、私。しかしそんな私のわがままをきいてくれた上、しっかり行動を共にしてくれる。こんなにありがたいことはない。


            見上げるような岩の間を下る

 慎重にルート選びをしながら這々の体で下っていくと、土石流の爪痕の中に石組みが見つかった。ようやく人の手が入るエリアに辿り着いたのだ。これで“巨岩たちの館”を脱出することができたのだろうか。


            石組みだ! これで危険地帯脱出か?!

この石組みの近くで、沢の源流を見つけた。岩の割れ目からちょろちょと流れ出る石清水に、私たちは乾いた喉を潤した。

やがて眼下にこの砂防ダムが現れた。



「砂防ダムがあると言うことは、そこに建築資材を運んだクローラ道があるはずだから。」というらいおんさんの言葉通り、まもなく私たちは林道に降り立った。私たちは、巨岩達との戦いを制したのだ。


         ようやく林道に戻ることができた 命拾いした〜

 後に聞いたことであるが、M氏によると、本来の橇道は巨岩地帯に入らずに尾根道をそのまま辿ればよいということである。
 また、KAZU氏の話では、尾根道を右に降りると、それはそれは恐ろしい“悪魔の館”(←KAZU氏命名)という、私たちが迷い込んだ巨岩地帯など比べ物にならないほど荒れた沢を下るハメになるそうだ。ゾゾ〜ッ!


   無事に帰ってこられてよかった…

行程を振り返って
 最後に、今日辿ってきた行程を振り返ってみよう。
 
 三方平の山頂下数十mのところから橇道は始まり、百数十m下に平場がある。おそらくそれは薪の集積場所だろう。
さらにソリ道は続き、山の傾斜が緩やかになったところから炭焼き窯が多数ある。集積場所から運ばれた薪を、それらの窯で炭に焼いたのだろう。炭を焼くためには、一旦窯に火を入れて蓋を閉じてからは1週間ほどかかるという。

焼き上がった炭は、人の背によって下界に降ろしたのではないだろうか。そして伊豆の産品として、地元で消費するほか、江戸・東京などに送られた。十郎左ェ門から下ろされた炭は、河津川を舟で下り、回船に積み替えられて都市部へ送られたのだろう。都市部では、貴重な燃料として重宝したに違いない。

現地の概念図を描いてみた。



 このように、十郎左ェ門、いや正しくは三方平の南麓には、一大炭焼き地帯が形成され、標高差を上手に利用してあたかもベルトコンベアー方式の作業工程を辿るが如く、炭を生産していた。

そしてこの地にはまだまだこうした仕組みを持つ山仕事の、いにしえの姿が眠っているに違いないのだ。


                                             
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