県内最初の鉄道
静岡県内を東西に走る東海道本線。その線路の敷設はどのようにして行われたのでしょうか。
もちろん起点である東京から順に線路を延ばしてきたのではないでしょう。各県の要所ごとに建設基地を起き、そこに資材を集めて工事をしたことは、想像に難くありません。
明治19年、静岡県内の東海道本線建設工事が始まると、まず敷設されたのが、今回訪ねる沼津の蛇松線だったそうです。
「蛇松(じゃまつ)」というのは変わった名前ですが、海側の起点である狩野川河口近くに蛇のような形をした松の木があったことから名付けられたそうです。
蛇松線は東海道線の建設資材を運ぶために敷かれた鉄道で、県内で最初に蒸気機関車が走った路線だそうです。そして蛇松線はその使命を変えつつ、昭和四十九年まで運行されていたそうです。(昭和四十九年といえば私が高校2年生の時。当然、沼津にも出かけていたのですが、蛇松線には気がつかなかったです。特に鉄道に関心がなければ、そんなものでしょうか…)
ここで、資料『今は昔 しずおか懐かし鉄道(静岡新聞社編 2006年6月16日初版)』から、蛇松線についてのノートを紹介します。
蛇松線とは〜『しずおか懐かし鉄道』より
「明治19年、静岡県内の東海道建設工事が始まると、まず敷設されたのが沼津市街地を抜ける蛇松線だった。東海道線の建設資材を運ぶための鉄道で、県内で最初に蒸気機関車が走る路線となった。廃線になる昭和49年まで実に88年の長期間、運搬専用鉄道として運行された。東海道線の建設には膨大な資材が必要で、これらは横浜から大型船で狩野川河口に陸揚げし、さらに蛇松線を使って東海道線の建設現場まで運んだのである。
「蛇松線の開業は明治20年4月で、その半月ほど前に新橋−横浜間で使っていた第五号蒸気機関車が狩野川河口の桟橋に陸揚げされた。その日は、蒸気機関車を一目見ようと言う市民達で桟橋がいっぱいになった。河口一帯には出店が軒を並べ、大変な賑わいだったという。
第五号機関車は解体して運ばれてきたため、鉄道技術者が組み立てて3月27日に試運転をしたが、沼津には石炭がなかったため、松薪を石炭代わりに燃やして走った。」
「狩野川河口の蛇松から下川原町、千本緑町、幸町、白銀町を経て現在のJR沼津駅までを結ぶ蛇松線は、全長2.7km。明治時代の沼津の中心街は今の駅前のほんの一部だけだったので、沿線に民家はなく、のどかな松林や田んぼの中をのんびりと走っていた。」
「大正から昭和に書けて沿線に家が建ち初め、戦後の昭和二十年代には住宅密集地を汽車が走るような光景になってしまった。しかも道路が休息に整備されて東海道踏切、国道1号線踏切など、2.7kmの間に21カ所物踏切ができて、蛇松線はよく自動車と衝突事故を起こした。」
「蒸気機関車が引っ張っていた蛇松線は同45年にディーゼル機関車に切り替えられるが、それまでは沿線簿学校や病院から蒸気機関車の汽笛がうるさいと苦情が出て、機関誌は警笛ひとつ鳴らすのにも気を使ったという。」
「東海道線の資材運搬用として誕生した同線は、東海道線が完成すると主に石油や木材を運んだ。さらに沼津に魚市場が開設されてからは、魚専用の貨物列車になっていった。」
「列車の運行は1日4往復と決められていたが、時刻表などもともとない。沼津駅構内で空いた蒸気機関車があれば蛇松線に回すという、今では考えられたに運行のしかただった。」
「静岡県で一番古い蛇松線は後に沼津港線と呼び名が変わるが、トラック輸送に勝てず、昭和49年8月31日で廃線となった。現役時代は邪魔者扱いされた蛇松線だが、線路跡は緑地帯や遊歩道になって市民に親しまれている。」
地図を見る
国土地理院の地図でも他の地図でも、開いてみると、たいてい線路跡を見て取ることができます。
下の地図は国土地理院がサービスでネットに提供している地図ですが、ほぼ縦横に延びた市街道路の中を、ゆるやかなカーブを描いて沼津から狩野川河口まで線路跡が延びています。そこだけが周囲とそぐわない道路のつけ方をしているので、蛇松線の跡と分かるのです。

お出かけ
12月25日、久しぶりに家族4人が揃った休日なので、沼津に買い物に出かけました。午前10時半頃に仲見世通りに到着。1時間半後に待ち合わせることにして、私は沼津図書館へ。郷土史コーナーへ行って資料を紐解きました。
正午、4人が再び集まっていつもの「沼津魚河岸くるくる寿司」へ…。あ、こんな事はどうでもいいですね。
それからイトーヨカードーへ行き、駐車場に車を置いて、私は徒歩で沼津駅南口へ向かいました。
追跡開始
地図を見ますと、蛇松線は沼津駅構内からそっと抜け出すようにして東海道線から離れ、緩やかなカーブを描いて狩野川河口近くへ向かいます。
その起点は、どこでしょうか。
駅舎の西の線路をガードでくぐって、南口の駐輪場へ来ました。ここは線路に一番近寄ることのできる場所です。私は特に鉄チャンという訳ではないので、駅の構造はよく知りません。現場で探るしかないのです。

冬特有の鉛色の空の下、ひっそりとしている沼津駅
沼津駅南口は今、再開発の工事中です。その工事に携わる人たちに混じって、線路脇に来ました。

路線敷と接している駐輪場から見た場内です
この辺りから西へと、蛇松線は延びていたようです。
私の存在をいぶかる人はいないようなので、ちょっと線路にお邪魔して、西を見てみました。

使われていない線路や剥がされた線路の跡が幾条にも残っています
使われていない路盤に沿って西に移動すると、確かに線路の剥がされた後が本線から逸れるようにして南西側に延びています。あれが蛇松線の跡に違いありません。

これが蛇松線の跡でしょうか
構内から出て、線路敷に一番近い市道を西に歩いてみました。
小さな川を跨ぐ橋を渡ろうとすると、「城内橋」という名が書いてありました。そう、ここ沼津は、かつてお城があったのです。この橋の名はその名残でしょう。駅南には「大手」などの地名が残っていますね。

「城内橋」 ここはお城の中だったのかな
行く先に運送会社の大きな建物が見えました。確か、蛇松線は廃線になるまで運送に使われていたはず。ならば、この建物が関係しているのかも知れません。

沼津通運倉庫(株)という会社のようです?
歩道からそっと覗くと、会社の建物の中には人気が感じられず、静かでした。
守衛さんの姿もなく、ひっそりとしています でも現役稼働中の会社ですよね
案内ニャンコ
その時、広い市道の向こうから一匹のニャンコが渡ってきて、運送会社の中に入っていくのが見えました。
あっ、危ない!
ニャンコは野良ちゃんでしょうか。建物の中をねぐらにしているのかな。
でもほどなくニャンは出てきて、また道の向こうに渡っていきます。
危ないよお〜! 見ている方がはらはらします
見ると、ニャンコの渡っていった向こうに、小さな公園のような緑地があります。あれが蛇松線跡に作られたという「蛇松緑道」でしょうか。
運送会社の倉庫に目を戻して建物の中に目をやると、(おやっ?!)と思う構造物が目に留まりました。
この段差…! もしかしてプラットホームの跡じゃないでしょうか・・・?

この高さ、この曲率・・・、線路とホームの跡では?!
1mほどの高低差を持ち、ゆるやかにカーブを描いているこのコンクリートの段差。そして道の反対側には緑地帯…。
こ・こ・で・す・・・、きっと! 蛇松線跡の事実上の起点!
ここが起点なんだ…、そう思って撮影をし、道路を渡って緑地帯側に行きました。
あれれ、さっきのニャンコ、首輪をしています。野良ちゃんでなくて、飼いニャンコなのかなー。
すると、ニャンコは緑地の脇の菓子屋さんに入って行くではないですか。

ニャンコがお店の中に入っていく〜
ちょうど散歩中?の男性がお店の人と話をしていったので、そっと店先に寄ってみますと、さっきのニャンコとお店のご婦人がいらっしゃいます。これ幸いと、話を聞いてみることにしました。

シクラメンとニャンコ 絵になります
首輪ニャンコと
「こんにちは。蛇松線の跡を歩こうと思って探しに来たのですが、線路の跡はここでしょうか?」
「ええ、ここが線路の跡ですよ。今はずっと緑地になっていますけどね、そこの倉庫から線路が出ていて、踏み切りで道を渡り、魚市場の方まで延びていました。」
「私はここに昭和27年にお嫁に来たんですけど、30年に生まれた子が小学校を出る時はまだ列車が走っていたので、昭和の四十何年までは走っていたんじゃないですかねえ。」
「この道を踏み切りで渡る時にいつも汽笛を鳴らすので、すごい音がしてね。うるさかったですよ。」
「いえ、エンジンの列車でなくて、蒸気機関車ですよ。だから石炭の煙が出るでしょ。その煙がお店の方に来てね、大変でしたよ。」
「えっ、うちのネコが倉庫まで行って来たんですか。まあー。行っちゃだめって、言っているのにねえ。
前に、ここで車に跳ねられたんですよ。倉庫に行って、帰ってくる時にねえ。轢かれないで跳ねられたからまだよかったんですよ。でも怪我をして、1週間ほど入院したんですよ。
(ニャンコの顔を見て)ね、入院して、10万円ぐらいかかったよね! もうー。」

ちょっとおすまし うーん、美形ニャンコ ナリ〜
そんな話を聞かせてくれて、ご婦人は私のカメラに収まってくれました。写真をプリントして、今度持っていこうっと。
ありがとうございます〜
線路跡を歩く
さて、蛇松線跡は緑地帯になっているといいますが、河岸まで続いているのでしょうか。歩いて行ってみることにしました。
「蛇松緑道」という大きな案内板が立っています
線路跡は敷設当時の曲率を保って南西に延びています。軌道敷きの幅も、当時のままでしょう。よく民間に払い下げられないで残したものです。ひょっとして沼津市も市民も、蛇松線の思い出をいつまでも残したかったのかもしれません。

見える、見える、レールの跡が…
線路跡は遊歩道となり、植栽で彩られています。ベンチや掃除用具の倉庫なども置いてあります。その地区ごとに当番を決めて清掃や管理をしているように見えました。

このようにきれいな舗装がされています
市道と交差するところでは、線路を剥がしてアスファルトで埋めたような跡が見てとれます。かつて全線上には21カ所の踏み切りがあったといいますから、これらの一つ一つが踏み切りだったのかも知れません。
国道を渡る踏み切りは今
一番幅員のある旧国道一号線は、跨線橋で渡っています。ここももちろん踏み切りだったのですが、交通量が増えた昭和の後期には、列車よりも自動車優先だったそうで、道路を渡る前に列車が一時停止し、操車係が降りて旗を振り、自動車の流れを止めて踏み切りを横断したそうです。

緑道は歩道橋となって国道を渡っています

ここも昔は踏切で横断していたということです

階段がないのは自転車や車いすでも通行できるようにするためでしょうか
国道の車の速い流れが蛇松線を廃線に追い込んだのでしょう

古いスバル360は蛇松線の往来を見てきたのでしょう
ちょうど中間地点当たりに、蛇松緑道に関するていねいな案内板がありました
市役所の南から来る大通りを渡ります。あ、ここは私が車で時々通る交差点です。ここが蛇松線跡と交わるところだったんですねえ。全然知りませんでした。
芸術作品もある蛇松緑道 おしゃれです
緑地帯?ニャンコ地帯?
緑地は、その地域によって姿を変えます。遊歩道のような所もあれば、植栽が豊かで庭園のようになっているところもあります。

まるで庭園のような緑道
かなり南下しました。もう全線の半分以上は来たと思います。緑地帯には比較的大きめの植栽が増え、周囲は住宅地になりました。緑地帯がすぐ民家の裏に接しています。

ほらほら〜、線路と踏切の跡が〜
こんな山茶花の咲く道もあります。

まさかこのカーブは当時の線路のそれではないですよね
あ、「ニャンコに餌を与えないでください」という小さな看板が花壇に立ててあります。ニャンコがいるのかなあ。姿は見えませんけど。
すると、しばらく歩くうちに、おお、ニャンコの姿が見られるようになりました。

アパートの裏口で毛繕い白ニャン
そればかりか、うっ、小さな工場の裏や民家に接した植木の中に、かなりのニャンコがいるようです。

おお、キタ、キタ〜!

ほら、いる、いる〜

こっち見て静かにしている〜
すると、あらら、一匹の子猫が寄ってきてまとわりつき始めました。私がしゃがむと、ずんずん膝に乗ってきます。参ったナー。連れて帰ることはできないのにー。

どわー、寄ってきた〜!

のってくる、のってくるー

すりすりしてくるー でも目は恐いね

「連れて帰ってニャン」と言っているようです
「帰りにまた寄るからね〜。」と子ニャンコを膝から降ろし、走って逃げました。そうでないと着いて来ちゃうからです。こういう別れ、いつもつらいです。
再び話を聞く
ニャンコと別れ、歩いていると、熟年の夫婦が後ろから歩いてこられました。どうやらうウオーキング中のようです。私も歩調を合わせながら、蛇松線について伺ってみました。すると、奥様の方が返事をしてくれました。

そろそろ港が近くなってきたようです

待ってくださーい お話聞かせてー
そのお話はこんな内容でした。
「はい、ここは鉄道が通っていました。今は緑地帯になっていますが、沼津駅まで、それがずっと続いていますよ。」
「線路ですか、線路はもう残っていないですねえ。でも、この先に踏み切りが残されていますよ。」
「トロッコですか? いえ、普通の大きさの、大きい列車でした。単線でしたけどね。」
ご夫婦は、何をウオーキングをしながら古いことを尋ねるのかねえ、という面もちで、特に私の話には関心を示されず、一心に前を見て歩いておられます。
結局、新たに得られた情報は、この先に踏み切りが残っている、という事だけでした。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。(いえ、失礼しました、いい歳して線路のことを聞き歩く私の方が変なんですね)
ウオーキングのご夫婦に懸命に取りすがって話を聞こうとしている姿を見たのでしょう、一人の男性が話しかけてきました。
いよいよ発見!
「はーい、こんちは。どこから来たですか? え、下田? そりゃ、遠いところから…。線路のこと、知りたいの?」
「そうだよ、ここは蛇松線と言って、今でも小さいのが残っているんじゃないかな、蛇の形をした松の木があったところから『蛇松線』と呼ばれていた線路だったよ。」
「沼津からここまで延びていてね、ここで線路が別れて、一本は魚市場の方へ行き、もう一本はむこうの工場の方に行っていたんだよ。」
「え? 線路? あるよ。ほら、ここに。」

「ほら、ここに線路が残っているよ」と男性 ありがたい!
何と! 男性の指し示す先に、確かに線路が残っているではありませんか!

外国車の後ろに突如姿を現した線路
「
沼津駅から繋がっていた線路はあそこで別れて、魚市場に行っていたんだよ。」
「
私が高校生の頃にはまだ列車が走っていたから、けっこう後まで走っていたなあ。といっても、もうだいぶ前か、あはは。」
「 ここはね、線路の脇を掘り起こすと、石炭が出るよ。2m掘ると出るね。私は32年、大工をしていたんだけど、基礎を作る時に黒い土が出たのさ。『何だ、こりゃ?』と聞くと、蒸気機関車が走っていた時に出た石炭の燃えカスだって言うんだ。」
「家を建てるでこの辺を掘ると、まず、土が出て、その次に砂利、それから石炭、また砂利。そして2mより深くなると、そこからは水が沁みてくるんだよ。ほら、そこが狩野川だろ。元はこの辺は河原だったんだろうな。」
「写真? いいよ、これで写るかい?」

「これが線路」と、進んで写真に写ってくれたお茶目なおぢさん いい人です
どうやら私に蛇松線のことを教えたくてしょうがなかったようです。ありがたいことであります。
男性に厚く礼を申し上げ、改めて線路をよく見てみました。
線路は、道路と歩道、あるいは畑との際に、上手に嵌め込まれたように残っています。剥がしてないのは、土地の利権や所有者の関係があるのでしょうか。
よく見ると、枕木もあります
それにしてもよくぞ線路を残したものだと思います。粋な計らいですよね。
(でも線路が残っているのはきっとこの土の残っているところだけだろうな)と思いながら、念のため、終点まで辿ってみることにしました。
と、どうでしょう。見事に道路のアスファルトや歩道のコンクリートレンガの中に嵌め込まれているではありませんか。きっと意図的に形合わせをしたに違いありません。初めにレールがあり、それに合わせて舗装をしたりレンガを並べたりしたのです。沼津の歴史を少しでも残し、人々の心に余韻を刻む。廃線時の行政担当者は偉い!と思いました。

まるで路面電車の線路のように残っています

ここは踏切だったところでしょうか

線路と歩道が見事に融合しています 作った人は偉い!

でも実はこんな風にさりげなく残っている線路の方が好き

あー、でもいいですねー 線路のある歩道ですよ

やっぱりここは踏切だったのでしょうか
ああ、線路はここまでか…、と思ったのですが…
魚市場に行くレールは、やがて港湾道路に突き当たりました。もうここから先にはないでしょう。
がっかり・・・、と思いながらも念のため道路を渡って行ってみますと、
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あ・あ・あ・・・・
キター È ー ¤ á Õ
µ © §ー ッ!

まだあったーっ!
って、沼津の人たちにしてみれば、当たり前の景色なのでしょうね。後から来た私だけが驚き、興奮しているだけです。
さてさて、レールはこの歩道で終わっています。その先は県道沼津−原線に接続する市道です。そしてレールはもはや影も形もなくなります。

なくなっています…、正真正銘、レールは消滅しています
しかし変です。この道路の向こうは魚市場の作業場になっていますが、その作業所のコンクリートが新しくないのです。レールを剥がした後に作った作業所ではありません。むしろ、ちょうどレールがあった頃の建造物ではないかと思われました。しかしレールと作業場は接続していません。
この謎につきましては、後に行われた「いのしし隊元旦オフ」の時に解き明かされることになりました。かつてこの魚市場の人に蛇松線の話を聞いたことがあるという磯崎氏が情報を教えてくれました。
その話によりますと、何とこの魚市場の一段高くなった作業場は、魚の積み卸しをするのに使ったホームだというのです!
ガーン! 考えが及ばなかった・・・orz・・・
そう、線路はこの一本ではなかったはず。終点となる魚市場なのですから、ここには主線や引き込み線や留置線などが何本もあったはずです。となると、現在歩道に残っている線路は、むしろ魚市場の奥には入構していなかった留置線かと思います。もっと別の線路が道路と同じ軌跡を描いて作業場(元ホーム)の横に滑り込み、魚の積み込みをしていたのでしょう。
ならばもっとホーム跡(作業所)も見てくるんだった…。
もう一本のレールは
先ほどの公園の分岐まで戻り、「踏み切りの残っている方」へ行ってみることにしました。

この車止めの左を奥に行くのが線路跡です
団地内の公園を線路跡は延びています。

下河原団地というところだそうです

あ、向こうに何か見えるようです
緑地の中を歩いていくと、おお、機関車の車輪が置いてあります。そしてその脇には背の高い踏み切りの標識が立っています。

踏切が残っているって、これだったんですねー

説明板があればよかったですけどねー

どこの踏切にあったのでしょうか
写真を撮っていると、別の男性が歩いてきました。話を聞く最後のチャンスと思い、尋ねてみました。話の内容はこうでした。
「そう、ここは蛇松線という線路がありました。沼津駅までずっと続いていて、今は緑地帯にしてあります。駅まではかなり距離はあります。トイレはここと、少し行った先にあります。」
(そうなんです。沼津寄りにはトイレがないんです。河岸寄りには2つもあるのに、駅側にはないので、実は困ったんです…。)
「ここは、今は会社の事務所になっていますけど、昔は材木会社があったんですよ。そして向かい側は(今でも)石油会社です。だから、沼津駅から木や石油を運んでいたんです。」
「そして公園のところで線路が別れて、向こうの線路は魚市場に行っていたんです。魚を積み込んで、沼津駅まで運んでいたんですね。列車が長いので、そこの分かれるところでなかなか上手く行き来ができなくて、よく列車が停まっていました。」
「私は今65歳ですが(容貌がお若い!)、40歳ぐらいまでは列車が走っていたと思いますよ。」

優しい感じの落ち着いた男性でした
辺りには徐々に夕闇が迫ってきました。そろそろ写真を撮るにも光量が不足してくる頃です。
公園の突きあたりの石段を登り、堤防道路に上がってみました。そこには狩野川の河原が広がっていましたが、蛇の形をしていたという松の木の末裔はなく、雑木に飛来したゴミが引っかかっていました。

工場側の線路跡の終点は、こんな風になっています
こんな所に鉄道があったなんて回想もしないであろう自動車の群れが、せわしく行き来しています。

よく見ると松の木があるかな…?
冬の寒空に富士山が見えています
元は桟橋があったという狩野川の港跡から再び線路跡を歩いて沼津駅まで戻りました。駅から沼津港近くの終点まで、およそ片道45分あれば歩くことができます。
蛇松線跡。古道とはやや趣は違いますが、共通する表情は十分に備えています。それも近代日本の興業や生活の発展を支えた、立派な産業遺構と言えるでしょう。

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