堰口川と川久保川
東伊豆町片瀬と白田を分けるのは、その境を流れる白田川である。
この白田川は河口から約2.5kmで堰口川(せんぐちがわ)と川久保川(かわくぼがわ)が流れを一つに集めて下流に向かっているが、その合流点には発電所や浄水場があり、さらに4km上流に発電所の取水口がある。川を流れる水は異様に青く澄んでおり、この辺りには魚が住まないという。

伊豆急行の鉄橋から見た白田川 昔はもっと穏やかな川面を見せていたのだが
硫黄橋
橋を渡らず、林道を上っていくと、数kmで稲取方面との分岐に着く。上流側の林道は鉄柵で封鎖してあるので、鍵の番号を知っている人以外は車両でその奥に進むことはできない。川の右岸を徒歩によって辿ること約1時間。林道は硫黄橋で左岸に渡る。その橋の袂に吹きつけが為された硫黄坑跡がある。辺りには硫黄の臭いが漂い、ただならぬ雰囲気となっていることが感じられる。
日本公害史上最長の公害訴訟
ここ白田硫黄山の硫黄鉱山開発は、宝永年間(1704〜1708)に始まったという。しかし硫黄の残滓が堰口川に流入し、やがてそれが海水を汚染。漁師の漁獲高に悪影響を生じさせたので、操業差し止めとなった。
その後、文政年間(1818〜1829)に伊豆国熱海村の彦右衛門が行った採掘許可の出願を始めとし、遺構16回に及ぶ採掘許可願いの出願がされたことが現存する古文書によって明らかになっているという。
しかし沿岸の漁民は反対運動を起こしてきた。宝永年間以来、採掘が中止される明治中期まで、実に180年に及ぶ請願とその反対運動が繰り広げられたという。
では、現地の様子を見てみよう。
硫黄橋のたもとに立って前方を見ると、そこだけ吹き付けのされた山肌が、右を向いた猿の顔のように見える。その顔の頬の下に当たる部分が坑口の一つである。

硫黄橋と硫黄鉱山の坑口
近づいてみよう。ちょうど歩いていけるようになっているのは、そこに搬出用の運搬道があったからであろう。あるいはトロッコの軌道敷きになっていたのかもしれない。

人面猿のような形に見える
坑口がどのくらいの大きさなのか、同行してくれた先輩に立っていただいた。

坑口からは、強い硫黄の臭いと、透明だが白っぽい水が湧き出ている。

硫黄の臭いを我慢して坑口を覗き込んでみた。白い沈殿物が溜まっている。

さらに奥を覗いてみると、臭気が体を包む。坑道の奥は意外と狭く、体を屈めないと入れないくらいの断面となっている。

しかしカメラのシャッターを数回切っただけで硫黄の臭いに気分が悪くなり、坑口から離れざるを得なかった。体に悪いガスが発生していることは間違いないと思われた。
この上にも小さな坑口が見えるのだが、とても登れないので、内部がどうなっているのかは分からない。
硫黄坑2号坑
この辺りに3つある坑口は、2号坑というらしい。1号坑は、この下流約100mの辺りにあるらしいが、林道からその位置を見ることはできない。
「硫黄坑2号坑」という案内板の傍らに石段があり、奥に説明板と坑道がある。こちらに硫黄の臭いはない。

案内板の横に坑口がある!
平成7年に教育委員会が立てたであろう案内板が設置されている。

180年に渡る硫黄騒動史の概略が記してある
案内板によると、外部の採掘業者に対して地元の漁民が採掘差し止めの争議を起こし、それは180年間にも及んだ、とある。
入坑してみる
こちらの坑道からは硫黄に臭いがしないので、おじナベ氏のライトをお借りして(自分で持ってこないのは穴菌隊員失格…)入坑してみた。
入口付近には水が溜まっているが、両脇を歩けば問題はない。水に足を濡らさないためか、木の板も沈めてある。

しかし残念ながら坑道は緩くS字に曲がった後、坑口から約30mの地点で崩落、閉塞していた。

遺物発見!
坑道を出て辺りを見回すと、思わぬものを見つけた。レールである!

枯れ葉の積もった地表から生えるように、そのレールはにょっきりと4mほど突き出ていた。
今から37年前、熱川中学校の遠足でこの林道を歩いた時、理科の先生が「この林道の一段上に、硫黄鉱山から硫黄の石を運び出したトロッコの線路があったんですよ」と教えてくれたのを思い出す。当時はこのような案内板はなかったのでどこが硫黄鉱山なのか分からなかったし、トロッコの線路跡があると言われても一向にそれらしき跡は見えなかったのでそれきりになっていたのだが、先生の言葉は妙に心に残っていた。あるいは林道に沿ってトロッコの線路がずっと下方に続いていたのだろうか。
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