葉

稲生沢村を歩く 〜其の二
   2005年7月25日 起稿
 
中の瀬
  地名「中の瀬」の語源を考えますと、稲生沢川が左に大きくくねった左岸に瀬があり、そこに集落が発達したことから付いたことは、想像に難くありません。
 
 ここはかつて下田の港から船が上がってくることができ、稲梓方面から集められた炭や材木を積み込んだところだそうです。ですから集落としては小さいものの、大変賑わったそうで、呉服店や銀行などがあったそうです。今でもなまこ壁の倉や焦点を営んでいたとおぼしき家屋が散見されます。ただし近年になって地震対策か家主の代替わりでしょうか、少しずつ取り壊されたり改築されたりする例が増え、残念なことと思います。


 下田街道は、ここで本郷橋を渡って高馬へ行く道と、川の左岸に沿って中村方面へ行く道とに分かれます。

 ところで、かつてはここまで船が来たと言うことですが、本当でしょうか。今では河川改修によってすっかり川の底の形が変わってしまったので、そのような痕跡は見られません。しかし当時は川幅が今より狭かったので、水量を上手に利用できたのでしょう。 
 また、当時は豆陽中学の生徒が中の瀬から川を泳いで下田まで下ったという武勇伝もあったそうです。この話は佐々木先生からも伺ったので、確かです。
 その泳ぎ方ですが、当時は川の中央部が船が通れるように特に深く掘ってあったた、そこへ友達にカバンを預けた男子生徒が下着になって泳ぎ下ったということです。
「おおい、俺はここから泳いでいくから、カバンを持っていってくれい。」 「おう、気をつけてなあ。」
そんな感じだったのでしょうか。

高馬の反射炉跡
 本郷橋で右岸に渡りますと、高馬(たこうま)の集落です。ここには黒船来襲に備えて江川太郎左右衛門が建てたという反射炉(大砲を作るために鉄を溶かす溶鉱炉)があったそうなのですが、できあがる前に上陸してきたかの国の人に見つかってしまったため、あわてて韮山に移した、というエピソードが残っています。しかし、反射炉は、かろうじて位置は特定できたものの、基礎などは何も残っていないそうで、何とも残念です。今はただバス停にその名を残すのみとなっています。

竹麻神社
 中村橋を渡ってすぐのところに、山が突き出たように道に迫っている地点があります。そこに竹麻神社があります。

 なぜ「竹麻」なのかはしりません。資料がないのです。鳥居の根本には、謎の石造物が…。灯明台の「ひでばち」かと思って佐々木先生に写真を見ていただきましたが、とうとう分かりませんでした。漬け物石か?

 境内の奥にはいくつかの石祠が納めてありますが、屋根の向きが違うままセメントで固定してあります。何とかならないかな…。


高馬の石造物
 竹馬神社を過ぎますと県職住宅などがあって新しい土地のように見えますが、県道の右手にはお地蔵様などが点在しています。


 これは立派な祠に納められていますが、『下田街道』によりますと、由来ははっきりしないそうです。近所のお年寄りに伺っても、「昔からあったからねえ…。時々そうじはしているよ。」と返事が来ました。


N崎家
 県道が稲生沢側に沿って大きく左に曲がる辺りに、高馬の旧家、野崎家があります。立派な石垣と石造りの門があるので、すぐに分かるでしょう。こちらの母屋は築百年以上とのことで、中にお邪魔しますと、黒光りのする柱が見られます。
 この辺りには、かつて船着き場があったそうです。今は護岸工事によって全くその名残は見られませんが…。


地蔵様
 下田街道は、県道から離れて、山裾を南に下ります。途中、地蔵様などが立っています。


稲荷様
 道が山裾を下り、平らになる辺りに稲荷様があります。ひっそりとしていて、ふだんは誰がお参りするのやら…、という感じです。
 道はここからも山裾を進んでいたと思いますが、現在は建物が取って代わっており、道は県道に接続して門脇へとつながります。

門脇の山神様
 下田街道はバス停「稲荷前」でいったん市道につながります。博愛社の前を通り過ぎたら、再び山側に入ってください。この辺りはかつて一面の田んぼだったそうですが、昭和50年頃に区画整理を行い、ほとんど昔の面影は消えてしまったそうです。

 ある日、1年生の集団下校にくっついてここを歩いている時、畑の中に、お供え物が施された丸い石があるのに気づきました。
 これは何だろうと思っていたところ、次に通りかかった時にちょうど畑仕事をしているご婦人がいらしたので、訳を聞いてみました。
 そのお話によりますと、これは「山の神様」で、お嫁に来た時から既にこの畑の中にあって、当時のおばあさんが熱心に世話をしていたので、それを引き継いで自分もお祀りをしている、とのことでした。

信翁院跡 平成8年発行の『写真風土誌 伊豆 南豆編』79ページに「信翁院跡の石仏 寺の跡と静人は少ないが、堂山の地名は今にのこ路。明治6年学校創設時この廃堂に本郷村の135小学衆説学舎が創立された。」
とあります。

福泉寺
 下田富士を背負う形で山裾に開山されたお寺です。幕末、ロシア大使プチャーチンと日本全権大使の接見所となった史跡です。

 ここで下田街道は国道136号線と信号機のある交差点で交わり、市街へと入っていきます。町中の様子につきましてはたくさんの紹介HPがありますので、そちらをご覧ください。

 拙HPでご覧になりたい方は、こちらへどうぞ。(未編集)
                                        
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