旧稲取灯台とは
東伊豆町の白田と稲取の間には、急峻な山塊が横たわり、昔から交通の障害となってきた。
現在は国道135号線友路(トモロ)隧道が穿たれ、自動車にて数分間で通り抜けることができるが、それ以前に存在した旧135号線は昭和53年の地震災害によって甚大な被害を受け、結局災害からの復旧のめどが立たずに廃道となっている。それほど地形の面では交通の難所なのだ。
それは海運の面でも同様で、太平洋の相模灘に突き出したトモロ岬は、船の遭難を呼ぶ、恐れられた海域だった。冬は東からの「ならいの風」が吹き、昔の帆船などはいとも簡単に岩礁に吹き寄せられて難破してしまったらしい。したがって、この地に灯台を建てるのは、地元の漁民のたっての願いだった。
稲取旧灯台の前身は、天保14年(1843年)に白田村の品川屋清四郎という人がトモロ岬を見下ろす白田峠に置いた燈明台だという。これは、当時の沼津藩が稲取岬に築いた台場の信号施設として設置されたそうだ。
その後、廃藩置県を経て灯台は設置者がいなくなったが、清四郎の家族によってその灯は保たれた。そして明治43年(1911年)12月、漁船や船舶の安全な航行のために、稲取漁協が積み立てた資金を元に、同地に新しい灯台建設が計画された。 設計は英国人技師に委ね、ランプはマントル式石油燃照装置を設置。当時としては新式の設備だったという。
私が就職したのは昭和55年。最初の勤務地である東伊豆町には「城東ふるさと学級」と「稲取ふるさと学級」があり、私は城東(きとう)ふるさと学級のお手伝いをしていた。
その時に、「稲取には古い灯台があり、草に埋もれて荒れ果てている」と聞いたことがあった。両ふるさと学級では、古い灯台に着目していたのだ。
折しも同時期に、灯台守をしていた女性の回想記がNHKがラジオで放送された。たまたまラジオでその元灯台守の女性とラジオアナウンサーとの対話を耳にした、灯台を記憶する人々から、多数の問い合わせが放送局や稲取役場にあった。そんなことがあり、灯台は一躍注目を集めることになった。(私はそのラジオ放送を聞いていない。残念だ)
初代灯台守 萩原すげさん
初代の灯台守は若い女性であり、彼女は灯台守の資格を得るために、馬に乗って稲取から下田の御子元灯台事務所まで通って資格取得の学習に励んだ、と聞いた(後に聞いた話では、馬に乗って通ったのではなく、徒歩だった、と本人が語ったらしい)。そこに日本初の女性灯台守が誕生したのである。
彼女は当時17歳だったという。新しく導入することにした英国製のマントルを操作するには免許が必要であり、そのための資格取得と実際の操作には、高齢となった清四郎の長男、為次郎さんでは無理があった。そこで、為次郎さんの次女のすげさんが代わって資格を得て灯台守を務めることになったのだ。
かくてすげさんは稲取から下田までの往復50kmを歩き、8日間の講習に通った。講習を修了した後、1回目の試験には落ちたものの、補講を受けて無事に資格を取得した。帰宅した夜は神仏に報告し、一家をあげて万歳をしたそうである。
この後、稲取旧灯台は37年間その灯を灯し続けて沖を行く船の安全を見守ってきたが、太平洋戦争が激化すると、敵の目標になるからと、点灯が中止され、終戦と共に廃止された。その後、戦後の混乱期にカラスやレンズ、マントル、その他、鉄材は盗難に遭い、後輩の一途を辿った。
時の流れから取り残されて荒廃した旧灯台。しかし、先に述べたラジオ放送がきっかけとなり、石造りの明治灯台に関心が寄せられた。かくて昭和57年に町教育委員から文化財指定をされ、復元と保存が実施された。それも、女性灯台守だった萩原すげさんの長男、光一氏の友人達による、手弁当の奉仕による作業だったと聞く。失われたランプやレンズも、当時のスケッチを元にして復刻され、石造りの台座も復元された。
昭和60年4月1日の復元落成式において、すでに91歳になっていたすげさんは、来賓の祝辞を聞きながら(といってもだうぶ耳が遠くなっておられたそうだが)、明治43年の落成からその日に至るまでの苦難の思い出の数々をかみしめていたという。
旧稲取灯台は今
下田に転居して以来、なかなか東伊豆町には行かなくなった私であるが、10月12日、東伊豆町勤務時代の同僚と1泊同窓会を行った。
宿泊地が熱川温泉だったので、2日目に再開を約束して皆と別れた後、旧灯台跡を訪ねてみた。
熱川温泉から国道135号線を南下。トモロトンネルを抜けて、唐沢地区にある最初の信号を右折。町道に入る。分かれ道がいくつかあるのだが、親切なことに案内板が出ている。
唐沢の信号を山側に入ると、分譲地の前に案内板がある
実は、ここは小田原と下田を結んでいた幹線路の“東浦路”である。吉田松陰も松平定信も通った歴史の道だ。
東浦路は別荘地への取り付き道になって開発がされ、舗装もされたが、巨大マンションの前を過ぎると、急に淋しい道となってくる。
バブル景気の中で建てられた会員制のリゾートマンションだろう
東浦路を拡張した町道 元々はこんな道だったのだ
他所から来られた方には(この道でいいのかな?)と思われるかもしれない。それほど淋しい道だ。でも道なりにどんどん進んでいく。
やがて道は民家の前をかすめて行き止まりになる。そこにも1軒の家があり、その奥の高台に稲取旧灯台がある。
行き止まりまで来た 灯台はここにあるのかな
民家はこの灯台の灯台守の子孫のご家族が暮らしておられ、灯台資料館(土日のみ開館 入館無料)を併設している。
庭先に車を停め、資料館の前を通って階段を上る。真っ直ぐ行くのが東浦路であろう。
右から、案内板、東浦路入り口、灯台である
これが東浦路であろう 次は行ってみるゾー
階段を上る。旧灯台はよく復元されており、木々の間から見える相模灘を見下ろしている。点灯室に入れると思った来訪者が取ったのだろうか、裏のアルミドアのノブが破損してなくなっている。
左に見えるのは歌碑と説明を記した案内板である
案内板を撮影した画像
灯台の裏に回ると、管理ドアに「乙女の灯 復元東伊豆町教育委員会 施工(株)望月工業所」と記してあった。
ドアノブはとれてしまっている
今日はちょっと荒れ気味の相模灘を見下ろしている
この灯台の石組みはしっかりしており、過去に伊豆を襲った地震にも倒壊やズレを生じることはなかったという。
側から見た灯台
灯台資料館
灯台を見た跡、資料館にお邪魔した。
引き戸を開けて挨拶をすると、住居からご婦人が出てこられて、照明を点けてくれた。この資料館を管理しておられる朝子さんであろう。灯台守だった萩原すげさんの娘さんである。
中には朝子さん手作りの刺繍によって旧灯台の歴史を表現したパネルなどが展示してある。古い書物などもあり、しばし見入ってしまった。来訪ノートも置いてあり、ページをめくるとかなり遠方からも来館者が来ていることが分かった。
資料館に入ってすぐ右の列
館内には歌詞や短歌が詠われている
貴重な復元作業の写真集である
すげさんの生涯を記した本も出版されたそうだ。
現在も販売されているのだろうか
萩原さん宅では、ここが東浦路の白田峠であることから江戸期には茶店を営んでいたそうだ。黒船を追って下田に急行する吉田松陰と金子重輔も、ここで疲れた足を休めて一服したらしい。
帰り際、庭の草むしりをしている朝子さんにお礼を述べ、かつて庭にあったという“桜地蔵”さまの所在を尋ねた。
「桜地蔵様は、稲取のお寺に移して、祀ってもらっている。」とのことだった。
「名前は忘れたけど、もとのヤオハンの上のお寺だよ。」とのことだ。
また、目の前の東浦路は白田まで通れるのか尋ねたら、
「途中で崩れているから、行けない。」ということだった。
近いうちにまたこの地を訪れよう。資料もゆっくり読みたいし。もちろんその時には、目の前の東浦路を白田まで攻めてみたい。背中を丸めて草むしりを続ける朝子さんがこれからもずっとお元気でこの灯台を守り続けられることを祈って、この地を後にした。
旧稲取灯台の性能要目 |
位置 |
北緯34度47分 東経139度3分 |
構造 |
石造六角形 漆喰塗り マントル式石油燃照手動点滅 |
等級灯質 |
無級 白色 不動 |
明弧(光の見える範囲) |
北東、南、西の間 195度 |
海面からの高さ |
128.2m(台座から3.3m) |
光 度 |
100燭光 |
光達距離 |
10浬(18,520m) 約18km |
初点灯年 |
明治42年12月(1909年) |
所要経費(明治42年当時) |
850円(内、漁民積立金 805円) |
おまけ
せっかく稲取まで来たので、近くを見て回ることにした。
旧灯台のある唐沢から東浦路を下ると、役場に出る。そこでは土日に朝市が行われている。藤辺製菓が出店していて、そのお菓子がおいしいというので行ってみたが、あいにくこの日はお店が出ていなかった。
失意のうちに、他に行ってみたい場所へと向かった。
その1〜ぶどないやの天草トロッコ
ここは、稲取の天草干場だったところだ。地元の言葉で「ぶどないや」と呼ぶ。15年ほど前までは盛んに天草が水揚げされ、浜の女達がかけ声をあげながらコンテナに詰めた天草を運んでいた。この広いコンクリートのぶどないやが一面黒い天草で埋まったものだった。私の叔母も一時ここで働いていた。叔母は仕事が終わった後、天草に時々絡んでいるタツノオトシゴを、私たち甥や姪に土産にくれたものだった。
撮影する私の背後にも、同じような光景が広がっている
ここにはかつて天草を運ぶためのトロッコがあった。私もいとことこのトロッコを動かして遊んだことがある。 その後、天草漁をしなくなってからは放置されていたようだが、しばらくトロッコは残っていたようである。当時の写真はこれである。
すでにレールは取り外され、トロッコは廃棄処分されたようだが、何か痕跡はないかと、行ってみた。が、付近の倉庫の裏や草むらやを探しても、トロッコのトの字も残っていなかった。
しかし! 吊し雛展示館の裏に、レールが残されていた!
元倉庫の裏にひっそりとレールが残されていた
長さは5.5mある。恐らく当時のものだと思う。一本だけ、捨てられずに残っていたのだ。奇跡だと思った。
歩測によると長さは5.5mだ
ちなみに、ぶどないやの海側に見られる立派な松の木は、寛政五年に松平定信が伊豆巡検をした際に植えた“海防の松”である。その頃、ちらほらと見られるようになった外国船に憂慮して、村々の様子が海上から見えないように、また、海からの攻撃を防御するために、植えられた松である。
その2〜伊豆急行東町トンネル慰霊碑
山間部の多い伊豆半島に敷設された伊豆急行の路線には、トンネルが多い。その数は、全線延長45.851kmのうち、実に31隧道、延長17,840mにも及ぶ。
伊豆稲取駅を出発した上り電車は、ホームを出るとすぐに小さな鉄橋を渡り、東町トンネル(延長319m)に入る。トンネルを出ると稲取港を望む景色が広がるが、その一瞬に見えるものがある。慰霊碑である。
電車通学をしていた高校生の頃から、いつも電車でそこを通るたびに気になって、車窓からそっと黙祷していた。いつか行きたいと思っていたのだ。たぶんあの辺にあるのだろうと、目星はつけてある。(実際はちょっと迷って右往左往しちゃったけど)
“ぶどないや”の前を旧国道町道から分岐している東浦路を再び上る。
海沿いの旧国道135号線から分かれる東浦路
そしてすぐに左折。農道を上っていく。やがて稲取1号踏み切りがあり、黄色いプラチェーンが張ってある。やはりここにあったんだ。
この坂を上っていく
おお、踏み切りがある きっとあそこだ
しばらく待っていると信号が黄色く変わり、やがて踊り子号の下り列車がやってきた。
疾走する列車を間近で見るのは恐い
慰霊碑は、東町隧道の方を向いて立っている
慰霊碑に合掌して、裏面の銘を読んだ。そこにはここ東町トンネルで殉職した13人の坑夫の名前が刻んであった。
事故が起きたのは、昭和35年4月16日午後2時30分。伊豆急線第七工区東伊豆町東町隧道工事中に落盤が発生し、13人が生き埋めとなり11人が死亡。存命救出者はわずか2名で、その両人とも後に死亡した。伊豆急線の工事では31名の事故死亡者が出たというが、そのうちの半数近くがこの東町トンネルの工事で命を落としているのだ。
「プファ〜ン」という大きな汽笛で私を威嚇し、踊り子号は崩落事故のあった東町隧道に吸い込まれていった。
減速しながらトンネルに入っていったが、それでもかなりの速度が出ていた
その3〜もやい石
いつ頃からかは知られていないそうだが、稲取港では湾内外の自然石に穴を開け、そこに船を係留したらしい。
その石は後年も残っていたが、台風や港湾工事のために徐々に失われてきた。その事態を憂慮した地元の有志が保存を考え、引き上げて役場前に展示している。
近くにいた若い旅人達は無関心のようだった
その大きさは周囲の歩道や人物の大きさと比べて察して頂きたい。大きい石である。
隣では大型テトラポットを作る工事機械が唸りをあげていた。港湾工事の今昔を見る思いがした。
その4〜桜地蔵様を訪ねる〜失敗
稲取旧灯台の近くの畑で掘り起こされ、長く灯台と茶店を守っていたという桜地蔵さま。今は「元のヤオハン近くのお寺で祀っている」と萩原さんに聞いたので、あのお寺だろうと見当をつけて行ってみた。
そこは吉祥寺という。
旧国道135号線沿いにある吉祥寺 JR中央線の駅と同じ名
境内には、江戸城の築城石として切り出されたが、運び出されずに放置された石がある。
築城石である 採石途中で徳川幕府に対立した大名が切り出した石は、江戸まで運ばれなかった
お地蔵様は境内の一角に固めて祀ってあった。
でも、ちょっと変。桜地蔵様は上半身がないそうなのだが、こちらのそれらしきお地蔵様にはほとんど全身が残っている。
境内の一角にお地蔵様を見つけたのだが…違っていた
後で改めて資料を見たら、該当するお寺は、この北東にある正昌寺であることが分かった。勘違いだった…。
稲取には、このほか、海豚供養塔や阿波比丘尼の石像など、貴重な石造物がある。次回は合わせて見に行ってみることにしよう。藤辺製菓のお菓子も買えるといいなー。
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