葉

稲取水力発電所(取水口跡)を訪ねる
探訪 2007年12月22日   
 
電気の灯りともる
 明治44年(1912年)、稲取に初めて電灯がともされた。明るさは十燭光という明るさ(暗さ)だったと言うが、それまで使っていた石油ランプに比べれば大変明るく、火事の原因になる心配もないので、村人には大変喜ばれたという。十燭光というのは当時の明るさを表す単位で、今で言うなら10ワットと等しいらしい。当時、約900戸あった稲取村で、412戸が電灯を引いたという。

稲取水力電気株式会社
 発電を行っていたのは「稲取水力電気株式会社」。資本金2万5千円で創業し、7年間営業した後で解散、営業権を「河津川水電」に移譲した。

 発電所が置かれたのは、稲取の西部を流れる志津摩川(しずまがわ)の上流である。木造の平屋建てで建設され、昭和16年まで運転を続けたという。
 この発電所にはドイツのシーメンス社製の高性能発電機が備えられ、72mの落差の水力により28kwの電力を発電していたという。

 ここでそのシーメンス社について紐解いておこう。

 ドイツのシーメンス社の創業は、1847年12月12日のヴェルナー・フォン・ジーメンス(Werner von Siemens=「ジーメンス」はドイツ語読み) によってベルリンに創業された電信機製造会社、ジーメンス・ウント・ハルシュケ(Telegraphen-Bauanstalt von Siemens & Halske ) に端を発する。後にジーメンス・ハルスケ電車会社に発展し、世界で最初の電車を製造し、1881年に営業運転を開始した。
 日本においては1861年、ドイツ外交使節が徳川将軍家へシーメンス製電信機を献上し、ここに初めてシーメンス製品が日本に持ち込まれた。 1887年にはシーメンス東京事務所が開設され、以降、シーメンス社の製品は広く日本に浸透することになる。

 19世紀の主な納入実績には、足尾銅山への電力輸送設備設置、九州鉄道株式会社へのモールス電信機据付、京都水利事務所など多数の発電機供給、江ノ島電気株式会社への発電機を含む電車制御機及び電車設備一式の供給、小石川の陸軍砲兵工廠への発電機供給、などがある。
 そして1901年にはシーメンス・ウント・ハルスケ日本支社が創立された。 その後も発電・通信設備を中心とした製品供給が続き、八幡製鉄所、小野田セメント、伊勢電気鉄道、古河家日光発電所、曽木電気(のちの日本窒素肥料)等へ発電設備を供給した。また、逓信省へ、電話関係機器の多量かつ連続的な供給を行なったという。

探索へ出発
 12月22日。稲取で行われた職場のお泊まり棒念会から一夜明け、海の見えるホテルのレストランでうまい朝食バイキングをいただいた。その後で、同僚に挨拶をし、私はそそくさと稲取地内の探索に向かった。


     朝から刺身は、年に一度の贅沢であります

 1つ目の探索(稲取−白田間の古道)を終えた後、パジェミ号のステアリングを稲取の入谷地区へと向けた。

サイの神
 伊豆急行の伊豆稲取駅を右に見て町道を上がっていく。立体交差のアンダーパスで国道135号線をくぐり、長坂から入谷へと入る。
 ここには父親の実家があるので、子供の頃は親に連れられてしばしば遊びに来たものだった。しかしじいちゃんが亡くなってからは父親の兄弟が仲違いしてしまったため、訪ねる機会はなくなった。昔は従兄弟達が集まって遊んだり囲炉裏を囲んで大人の話を子守歌にうたた寝したりしたものだった。あの頃が懐かしい。


         じいちゃんちの家だー

 長坂(伊豆稲取駅から登ってくる道)を登りきり、水下(セブンイレブンの辺りから登ってくる道)から来る道と合流した。
 そこには祭壇を設えられた丸彫単座像のサイの神が鎮座していた。向かい側には庚申塔や念仏塔がある。子供の頃は全く関心がなかったので、これらの存在は覚えていない。ここにあったんだなあ…。


        入谷のサイの神(地区名分からず…)


                  庚申塔と念仏塔

 農家の広い敷地に挟まれた入谷の坂を上っていく。途中にまたサイの神や馬頭観音様があった。そういえばこの辺りには高校の同級生である山田君の家があるはずだ。彼、今どうしているかなあ。


     左から 念仏塔、庚申塔、供養塔、サイの神、地蔵、石塔?である


       途中の辻に馬頭観音様や地蔵様が祀られていた


            細野高原方面へさらに上っていく

赤松神社
 ここから先には民家はない、という地点を過ぎ、さらにパジェミ号を走らせる。目的地の発電所取水口跡は、赤松神社の近くにある。すると、何と、買ったばかりの格安ポータブルナビ(ソニー nav-u)に「赤松神社」と表示が出るではないか。あまり性能のよくないナビであるが、こんな山奥の小さな神社が登録されているなんて、ちょっと驚き…。

 神社のある大曲り右カーブの脇に、「稲取発電所取水口跡」の標識がある。そこには車を置けないので、一旦素通りし、次の左カーブの内側にパジェミ号を停めた。奥にはどこかに通じているような林道が見える。はて…。


              右への大カーブの脇に案内標識がある

 案内標識には、「史跡 稲取水力発電所取水口跡」「明治四十四年 稲取水力発電株式会社創立 この年に四一二戸の家庭に七一八灯が点灯」と書かれている。


              これはこれで立派な案内板であるが…


           赤松神社の由来に関する説明板もある

取水口跡はどこに
 標識の傍らに石垣があり、どうやら登れるようになっているようだ。この奥に取水口跡があるのだろうか。
 しかし付近には川はないし、まして水路などがある雰囲気など感じられない。本当にここなのだろうか。うーん、不思議だ。取水口跡らしき遺構の影も形もない。分からない…。何だか泣きたい気持ちになってきた。探索は失敗か…。


          標識の裏は畑である みかんの貯蔵小屋であろう 


             さらにその裏に赤松神社の社殿がある

 しかたがないので、赤松神社とは反対方向の、人の気配のする方に歩いていった。
 するとそこには畑があり、熟年の男性が作業をしているのが見える。藁にもすがる思いで、彼に尋ねてみようと思った。

 神社に背を向けて、ポリタンクや朽ちた耕耘機などが放置された薮をかき分けて進む。すると、何だ、車を置いた地点から入るとここに出るんだ、という辺りではないか。あの林道は畑への入り口だったのか。


         しかたがないので、踏み跡のある野菜畑の方へ行ってみた

80歳ぐらいの男性は、私の姿を認めると作業の手を休めて来てくれた。さっそく発電所について尋ねた。

「お仕事中なのに、すみません。発電所の跡があると聞いて探しに来たのですが、ご存じだったら教えてくれませんか?」

「ああ、発電所の跡か。あるよ。あちらだ。」

と、畑のさらに奥を示すではないか。あんな奥なのか…。案内標識からずいぶん離れている。これでは分かる訳ないよ。

すると歩いていこうとする私に男性は案内をしてくれた。

「いいよ、着いてきな。こちらさ。」

「当時の電力で灯された明かりは十燭光という明るさだったそうですが、どのくらいの明るさだったのでしょうね。」

「うーん、よく知らないけど、裸電球の十分の一ぐらいの明るさだったんじゃないかなあ。」

冒頭で述べたように十燭光=10ワットだから、100wの電球の1/10の明るさ程度となる。ご主人、合ってる!

「水路は狩野川台風でだいぶ流されちゃってね。石碑もあったんだが、それも流されてしまったよ。水路はここの奥に50mぐらい残っていて、この下では消えているけど、またあちらの方に50mほど残っているよ。」

「その先に25mプールぐらいの大きさかな、水を溜めるところがあって、その下に(発電のための)機械を入れてあった建物があったなあ。変電所だったのかな。もうその小屋はないけどね。」

「ほら、(取水口跡は)あの奥だよ。高くて土手がくみやすい(崩れやすい)から、気をつけなよ。」

「はい、どうもありがとうございました。」

思わぬ親切な案内に私は感謝し、男性と別れた。写真を撮りたかったけど、頼めない小心者の私…。悲しい。


     で、後ろからパチリ 一緒に写真を撮りたかったよ ご主人、ありがとう

男性にお礼を申し上げ、後ろ姿を見送って取水口跡を探してみた。

畑から川の方に下っていくと、なぜか数台の廃車が置いてある。中にはSW20もあり、もったいないことと思った。経営に失敗した中古車屋が廃車を放置したのだろうか。詳しいことは分からないけど。


         こっちの方なのか… 確かに川の水音が聞こえてくる


            往年の名車といえども、これでは見る影もない

 取水口はどこだろう?と思ってさらに奥へ進む。と、一段低いところに石組みと石碑が見えた。あそこだ!


           あった、あったー! あれに違いない!

 石碑には「水力発電所取水口跡 東伊豆町指定文化財」と刻んである。ここだったんだー。赤松神社からは直線距離にして200mは離れているだろう。辺りは私有地であろうからしかたがない事だと思うが、町道のカーブに立ててある案内標識はあまり親切な書き方をしていないことになるな…。


                石標の高さは1m20cmほど


         取水口跡である  でもどこから水を引いていたのだろうか?

 取水口跡からは、今来た道の方へと水路が延びている。

 しかし不思議なのは取水口跡と現在の水面とはかなりの高低差があることだ。もしかして水道橋によってもっと奥から取水していたのだろうか。いや、それとも台風などによる水害によって川床レベルが下がったのか、いずれにしても66年もの年月は取水口の姿が現を留めることを許していないのだ。


        取水口跡から志津摩川を見下ろす かなり高低差がある

異臭あり!
 ここで、あたりに異状があることに気がついた。ここは稲取の入谷地区のかなり上の方だ。民家がある場所ではない。志津摩川は清流となり、きれいな水を湛えているはずだ。
 しかし、臭いのだ。きれいなはずの水は、まるでドブの様に腐った泥の悪臭を放っている。

 川面を覗き込むと、黄土色に染まった水が上流から流れてきており、川床にはヘドロが溜まって、直視に耐えない惨状を呈している。これは酷い。どうした訳だろう。川には既に一般家庭からの生活排水は流れ込まないはずだから、何か他に汚泥や汚水を垂れ流す施設があるのかもしれない。これはれっきとした環境汚染であろう。


             クッサ〜、しかもキタナ〜! なんで〜?!

水路跡を辿る
 石碑のある辺りは平場となっており、丸い池の跡がある。ここに取水に関連する何らかの施設があったのだろう。


           庭園を思わせるような池の跡だが…

 水路は川面から10mほどのレベルを保って下流側へ延びている。


         水路跡だろう 辿っていけ〜(取水口跡から10m)


       土や落ち葉に埋もれているけど、行けるゾー(取水口跡から20m)

 途中、コンクリートの林道と合流している。


        す、水路はどこだー  道と共に下っているのか?(取水口跡から30m)

水路はそちらに延びていたのかと、林道を歩いてみた。途中で左側にあなりの面積を持つ平場があった。もしかしてこれがさっき尋ねた男性の教えてくれた“25mプールほどの貯水池”だろうか。


           これが“25mプール”のような貯水槽跡か?


          “プール”はこのような立派な擁壁で支えられている

 そうならこの下に発電施設跡があるのかもしれない、そう思って河原まで降りてみた。しかし林道の先にあったのは、砂防ダムであった。


         さ、砂防ダムだ  発電所跡があると思っていたのに…

この林道は、砂防ダムを建設するための建築資材を運ぶ輸送路だったのだ。

未だ全貌見えず
 以上のような経過から、発電所取水口跡の全容はなかなか見えてこなかった。先の男性は水路が2カ所に渡って残っている、と言っていた。また、私の見た資料にも「水路跡が150mほど見てとれる」とあった。まだ私は大事な部分を見落としているんだ。そうに違いない。初めて探索する土地では、往々にしてそういうことはある。その度に半泣きになってしまう私は、まだ経験が浅いということなのだ。

 一旦、林道を戻って、再び取水口跡に立った。“畑の下に残る2カ所の水路跡”はどこだろう。「150mに渡って残っている水路跡」はいずこにあるのだろう。目の前に広がる現状と聞いた話が一向に合致しないのだ。

 その時、林道との交差部分を歩いていて、ふと目に留まるものがあった。石積みである。何と、水路は“25mプール”の方に通じているのではなく、林道を横切ってほぼ水平にプールの上方へと延びていたのだ。

不覚!


          林道の向こうに何かある!(取水口跡から40m)

 不覚だった。水路は“25mプール”の方につながっているとばかり思っていた。しかし水路は林道から離れ(もちろん水路建設当時は林道などなかったのだから)、志津摩川の流れからも距離を広げながら、ほぼ水平にレベルを保って東に延びている。

行こう! この石積みの跡を追っていこう! これが稲取発電所取水口からの水路だ!


            やっと見つけた水路跡  行ってみよう!

水路は石積みによって造られている。ところどころで崩落を見せてはいるが、これまでの年月を考えれば、十分な保存状態を保っていると言ってよいだろう。


          延びてる、延びてる〜(取水口跡から50m)


            いい感じだ〜(取水口跡から60m)


           水路の内幅は50cmほどだ(取水口跡から70m)


       一部が崩落しているが、まだまだ続く〜(取水口跡から80m)


          キタ、キタ、キタ〜!(取水口跡から90m)


           まだまだ、まだ〜!(取水口跡から100m)


         まだまだ続いているゾ〜(取水口跡から110m)


            左にカーブしている(取水口跡から120m)


        大岩が行く手を遮るも、まだ続く(取水口跡から130m)

水路の先は
 取水口からゆうに150mは来たであろう。右手、遥か下には“25mプール”が位置している。


      うっ、ここまでか? 消えるのか?(取水口跡から140m)


         いや、まだ続いていそうだ(取水口跡から145m)


    ここで120度左コーナーとなっている この先は?(取水口跡から150m)

この先はどうなっているのだろう。水路はどこに通じていたのだろうか。


        ミカン畑の石垣か それとも水路跡の名残か

 このミカン畑の石垣がもし水路跡の一部なら、緩やかな傾斜を持ってさらに続くはずだが、その先には大きな岩が散乱しているだけだった。


              き、消えてる〜、水路跡が…

そして目の前の土手の上に、赤松神社の赤い社殿が見えた。もはやここまでか…。


            赤松神社の下に着いてしまった

残念、断念〜
 実はこの時の探索では、水路の先を確認することはできなかった。水路は“25mプール”につながっているようであり、もっと先のミカン畑の中に吸収されているようであり、はっきりしない。
「75mの落差」は、稲取発電所が今も伊豆の各地で見られる発電所と同じ構造だとすれば、円断面の鉄管によってもたらされていたと考えられる。ということは、少なくとも志津摩川から75mとの垂直高低差がある場所に発電設備があったことになる。故に、発電所は砂防ダムのもっと下にあるのかも知れない。違うかな…。

あるいは、もしかして砂防ダムが建設された時に跡がなくなってしまったのかも知れない。それともそれ以前に狩野川台風で流されてしまったのかも…。

 下図が辺りの概念図である。細野湿原に行く町道脇から入り、取水口跡まで200mは距離があると思う。辺りは明らかに私有地なので、車の乗り入れはやめたい。そして畑に人がいたら、挨拶をして行こう。



下に地図を載せてみる。
 なお、地図中のサイの神様の位置は、稲取にあるサイの神さまの全てではない。まだ他にも各所に鎮座しておられるので、注意されたい。

                                             
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