葉

その他の石造物
ここでは、稲梓で見られる色々な石造物を紹介しています。   
 
須郷の龍爪さん
 須郷は入谷に入って楞沢寺(りょうたくじ)を過ぎ、先に紹介した道祖神地蔵様を見てほんの少し行きますと、右手に山の神神社があります。その向かいに、石灯籠や石祠が建っています。そこから、川の対岸を見てください。ツタの絡まる大きな岩があり、その上に石祠が建っているのが見えるはずです。これが、須郷の龍爪さんです。

 その先のお宅のご主人に由来を伺ったところ、「この龍爪さんは、松崎の龍爪神社から分けてここに祭られた。猟期になると猟師達が集まっておにぎりを上げ、猟の安全を祈ったものだった。龍爪さんは弾避けの神様だから、猟師が集まるのだろう。だけど今は猟師もそんなことはしなくなったな。」とのことでした。
 川を渡って大岩の裏に回り、ツタに手をかけてよじ登りますと、石祠が大岩の上に乗っています。かつてはツタに絡まって身動きがとれなくなっていましたが、一度きれいに刈り払ってあるのを見たことがあります。まだ大事に思う人たちはいるのですね。
 ちなみに、山の神様の前にある石祠は、川を渡って龍爪さんにお参りできない人のために地元の人が「代わりにお参りしてね。」という目的のために建てたそうです。ありがたいことですねえ。(だけど私はハンターが嫌いよん。)

 この先、どんどん道なりに登っていきますと、樫の木地蔵様に行くルートになります。


    山の神様の前にある石祠と灯籠 まだ新しいです

 龍爪さん鎮座する大岩 龍爪さんは岩の上にあります。 この日、龍爪さんはツタに覆われて、お化けみたいになっていました。

須郷の道祖神地蔵
 須郷の龍爪さんをさがしていて、まったくふと目に留まったのがこのお地蔵様でした。道の左、河原のケヤキの根元にひっそりと挟まるようにしてあります。高さは50cmほど。光背の意匠が独特です。
 後で近くを通りかかったおじいさんに聞きますと、この下にある鈴木さんという方のひいおじいさんが奉納したそうです。そのおじさんは、「サイの神だよ。」と仰っていましたが、そうなのかな? 私には、石工の駆け出し職人さんが作ったように思えます。いつまでもこの地にいてほしいものです。家、水害で流される前に道上に上げて、祭壇を作って祀った方がよいかも…。


普通に道を歩いていたのではまず見つからないでしょう。すぐ見えるところにあるんですけど。

謎の石灯籠
 須郷・中村のサイの神を過ぎますと、集落に出ます。その中ほど、楞澤寺(りょうたくじ)の手前右に、2本の石灯籠がやや離れて立っています。
 以前通った時、たまたま隣のお宅で洗濯をしているご婦人がいましたので、その由来について聞いてみました。
 そのお話に寄りますと、戦後になってしばらくするまでここの川向こうに神社があったのですが、その神社がもっと下の方に移転したため、参道入り口だったここに灯籠(常夜灯)が残ったのだそうです。かつてはお祭りの日になるとここに大きな幟が立ち、かなり賑わったそうです。なるほど納得。でも二つとも形が違うところを見ますと、完全な形ではありませんね。きっと何度か倒れ、積めるピースだけ立ててあるのでしょう。傍らには残りのピースが残っています。ちょっと淋しいことですね。

忘れられた水神社
 蓮台寺から藤原峠を越えて相玉に下りたとき、砂防ダム近くにお住まいのおじいさんから教えてもらった水神様です。
 相玉・庚申堂近くにサイの神がありますが、その裏手の竹藪の中にひっそりと立っています。元は竹藪なんかではなく、湧き水の出ている田んぼだったのではないでしょうか…。高さは50cmほど。「水神大明神跡」「昭和十三年」の銘があります。かつては社があったのでしょう。今はこんな所に水神社が建っていたとは、知る人は少ないのではないでしょうか…。



横川・謎の宝篋印塔
 横川の千代田旅館の入り口から西の畑を見上げますと、際にこの塔が立っています。
基部が大変大きいので、元はかなり重厚な塔だったと思います。形からして、宝篋印塔でしょう。どうしてこんな所にあるのでしょうか。風化が進んで痛ましい姿をしているのが残念です。お供え物もありません。忘れられた塔のようです。そっと手を合わせてこの地を後にしました。


      高さは1mほど 元はもっと高かったのでしょう。

北湯ヶ野・日枝神社の福神様
 稲梓には、箕作から小学校前を通って横川に至るまでの道沿いに、日枝神社が三社あります。(日枝神社は大地を守る神様だそうです。)
 そのうち、横川に一番近い日枝神社の境内にこの神様があります。これは珍しい! 大黒様です。たぶん稲梓でたったひとつの福神様です。 残念ながらお顔が摩滅して表情がよく分かりませんが、手に打ち出の小槌を持っているのがはっきり分かります。台座を含めない高さは40cmほど。本殿に登る階段の中段にありますので、見上げるようにして拝みます。
 このような福神様が奉納してあるのは、商人が行き来した街道沿いに多いそうですが、なぜここに?。 たぶんこの地出身の人が商売を始めるに当たって成功を祈願したか、それとも商売がうまくいってひと山当てたのでお礼に奉納したか…。そんな背景があるのではないでしょうか…。この日枝神社には、ほかにもつぶれた常夜灯や青面金剛塔などがあります。
 そうそう、修善寺東小学校下にも同じような大黒天がおわせますね。あちらの神様はもっときれいですが、商売繁盛を願う商人が体を削って持ち帰ったためにすり減っていると聞いたことがあります。いずれにしても文字通り身を粉にして人々の幸を願う神様…。手を合わせずにはおられませぬー。


           台座を含めない高さは40cmほど

横川・千代田旅館駐車場脇の石造物
 横川温泉の川沿いの趣のある宿・千代田旅館さんの駐車場脇に、石造物群があります。ご主人に由来を伺ったがったところ、「昔からあるんだけど、知らないなあ…。歴史を調べているという先生が来て見た時に、『この祠は、屋根と石室が違うなあ。』と言っていたよ。」とのことでした。
 左から「弘化五(1848)申年二月吉日 願主 大水 仙蔵 □□」の銘がある御神灯、「日本西国供養塔」、智拳印(左手人差し指を右手で握った形)を結んだ石仏、銘判読難の地蔵、石祠2つ、塔のピースが並んでいます。この辺りにはこうした石造物が多いそうで、道路工事の際にどこへ移したらよいかと困ることがあるそうです。御神灯は、たぶんこの奥の山手にある日枝神社に関連があるのかもしれません。



雄岩と雌岩(「おいわ」と「めいわ」)
 これは石造物ではありませんが、石ですし、土地の人に語り継がれている名所なので、紹介します。
 須郷は加藤製菓の工場前まで行き、南の山を見ると「雄岩と雌岩」があります。どれが雄岩で、どれが雌岩なのでしょうか…。
 なぜそんな名が付いたのかという訳について、須原に実家のある同僚に尋ねた事がありますが、「昔からそう呼んでいたからねえ…、理由は知らないよお。」という返事が返ってきました。ここを通って山や里に通う人々が、いつとはなしに名付けてそう呼んできたのでしょう。昔の人たちは想像力が豊かだったと言うことでしょうね。


             冬は中央の盛り上がりから岩肌が露出します。
 
須郷・茶屋堂の石造物群

 その入谷の大日如来石塔を見て更に奥に進みますと、右に民家があります。そのお宅の隣に、たくさんの石造物が並んでいます。大小様々なお地蔵様や石塔がずらりと並んでいる様は、この地の信仰心の厚さを感じずに入られません。
 さてこの石造物にはどのような由来があるのか、ここのお宅のおばあさんに伺ってみました。そのお話に寄りまと…、

 「かつてこの少し上に、『茶屋堂』と呼ばれるお堂があった。その周囲には、近くの家から納められたたくさんのお地蔵様が立てられていた。それは、子どもの疱瘡や結核が治ると親が感謝の印として立てたお地蔵様だった。しかし茶屋堂がなくなるにあたり、それらのお地蔵さんをここに移した。お地蔵様には、奉納した家の屋号が刻んであるので、後で見た若い衆が、「なんだ、これはおらの家で納めた地蔵じゃあ。」と驚くことがある。」と教えてくれました。

 今はない茶屋堂に歴史の悲しさを想い、お地蔵様にそっと手を合わせてこの地を後にしました。もちろんお盆やお正月には、こちらのお宅の方の手によって、新しい花やお餅が供えられています。

須原・入谷の大日如来
 須原の口村を過ぎますと民家の姿が少なくなって道も細くなりますが、やがて前方が明るくなります。左手には須郷川が水音を耳に届けています。
 その右手斜面に、小さな石塔があります。ちょっと見ますと、市の境界示標のようにも思えますが、「大日如来」の銘を読むことができます。高さは30cmほど。日当たりのよい所に立っているためでしょう、痛みが進んでいます。でも、こんな小さな石塔にも、昔の人々の牛馬を大事にした想いが読みとれ、しみじみとしてしまうのです。
     何気なく通ると見落としそうな石塔です。                  でも「大日如来」の銘がある石塔なんです。

須郷・中村の石祠
 中村に入ってまもなくの市道の右側にあります。高さは台座を含めた高さは60cmほど。大きめの石祠です。
 初めはサイの神かと思って通りかかった人に聞いてみたところ、「以前この上に神社があったのですが、南郷に移転したので、その跡地であることを示すために祀ってあるんですよ。」と教えてくれました。近くに住む私の親戚(父の叔父)は、「サイの神のようなものだろう。」と言っていました。よく見ると、古い人形が供えてあります。稲梓のサイの神によくやる風習そのものです。
 須郷は、これから先、目立ちませんがいくつもの石造物が点在しています。追って紹介していきます。



箕作の文字道祖神
 これは珍しい! 私の知る限り、稲梓、いえ、下田市で唯一の文字道祖神です。(松崎町の建久寺にはもう少し大きいそれがあるそうです。) 一見の価値があります。
 これは、箕作の数沢洞(かっつぁっぽら)を入って左手のやや高い所に立っています。 高さは50cmほど。表に「道祖神」と、大変きれいな楷書で刻まれており、江戸後期に建立されたことも記されています。上部が屋根のように作られていますが、残念ながら一部欠損しています。私はこの文字碑の存在を『図説 下田市史 下田市史編纂委員会発行』で写真を見て知りましたが、「箕作にある」と読んでもピンと来ませんでした。でも教育委員会の人に聞いて所在地が分かりました。長く保存されるとよいと思います。


北湯ヶ野の徳本名号塔
 北湯ヶ野のお茶工場の北側、サイの神のすぐ手前にこの名号塔があります。車道から見えますので、お気づきの方は多いでしょう。隣に、由来不明のお地蔵様が並んでいます。側面に、『文化四年』の銘があります。『文化』といえば、ここに来る手前の椎原のサイの神に並ぶ供養塔にも同じ年号が彫られていました。同じ頃に信心深い人がいたのでしょうか。この日は、キティちゃん人形がたくさん置かれていました。



日枝神社の石祠
 稲梓小学校の南側の市道に日枝神社があります。稲梓には日枝神社が多くありますね。その由来は、大地を守る神様だそうです。

   
          崩れた石祠
 
 その参道の脇に、石祠があります。形がだいぶ違いますので、奉納された年代が違うのでしょう。いつもきれいにされ、お供え物も絶えません。台座の前にいろいろな石造物のパーツが置かれています。どうやら五輪塔のそれのようですが、向かって左の祠の前に置かれているのは、黒く焼けこげています。初めて見た時は、どんど焼きの時に火に入れられた道祖神かなあ、と思ったのですが、一度焦げた後で割られたようですので、正体は分かりません。あるいは、椎原のこの辺りや宇土金にはサイの神がありませんので、ひょっとして道路拡張工事の際に石祠ごとここに移されたのかとも推測しています。
 もう一つ、階段の左に崩れた石祠があります。こちらは全く顧みられていないようで、崩れるままにされています。これら二つの扱いの違いが大きいのでなぜかなあと思っているのですが、それぞれ時の流れの中でひっそりと人々の生活を見守っているのでしょう。そう思いますと、崩れた石祠でもいとおしくなりませんか?

坂戸大師堂の石仏群
 
今回は、坂戸の大師堂にある不思議な石仏群を紹介します。ここには、伊豆地方にはまず見られないような一風変わった風貌の石仏が並んでいます。なぜここにこんな石仏が並んでいるのか、由来はほとんど分かっていないようです。ではどうぞご覧ください。
 須原の国道から坂戸に入り、どんどん奥(東)に入っていきます。そう、これは坂戸から落合に抜ける古道のアプローチです。

 2kmも入ったでしょうか、かなり奥まで来たな…、と思うところに、左に大きくカーブしている地点があります。左には梅の木があります。ここで振り返って画像を撮りました。赤い車の向こう側に石段があり、それを登っていくのです。下から大師堂はまったく見えません。地元の人ならよく知っているでしょうが、初めて行ったのではなかなか場所が分かりません。私も分からなかったので、地元の人を探して尋ね、連れて行っていただきました。そうでもないととても場所は分からないと思います。


 30mほど続く急な石段を登り詰めますと、こんな所に?と思うような広場(境内)があり、小屋とも納屋とも言えそうな建物が建っています。これが大師堂のようです。集会所なのでしょうか。
 その向かって左に、石仏群があります。斜面に立っているので、今にも滑り落ちそうです。実際、天狗のように鼻の高い石仏が一体、ずり落ちていました。


      
これが大師堂?





 
向かって右から、水神・梵字がたくさん刻んである石仏、赤子を抱いた地蔵様、猪のような動物像、首のない地蔵様、天狗のように鼻の高い石仏(下にずり落ちています。)、恐い表情をした石仏、踊るような仕草をした石仏が並んでいます。もっと手前の方には、無縫塔(僧侶の墓)が一つ立っています。
 これらの石仏には、刻銘があります。ざっと読んでみますと、「水神」、「□列 風早郡 中西 貞村 施主 仙松」、「願主 坂石 半兵衛 木酒令 福松」などと読めます。
 
ところで、どうしてこんなに風変わりな石仏がここに並んでいるのでしょう。不思議ですね。白浜のS先生の話によりますと、彫りの特徴からして、四国から伝わってきた石仏ではないか、とのことでした。しかし四国の教育委員会に問い合わせても、由来は分からなかったそうです。

 それにしても、水のないところなのに水神様があったり、柔和なお顔をした子守地蔵様があるかと思えば恐い顔をして踊る神様があったりと、まったく訳が分かりません。ぜひ一度、足を運んでみてください。

椎原の石祠 
 
 この石祠は道からすぐに目に付くところにあるので、以前から気になっていました。しかし畑の中にあるので、屋敷神さまかサイの神かなあ、と思っていたのです。今日はその畑に下り、ついにその由来を確かめることにしました。
 この石祠は、椎原のガソリンスタンドのある県道交差点を北に入り、沢渡橋を渡ってすぐの左の畑の中に立っています。きんかんの木の下にあるので、すぐに分かりますよ。
 この石祠の由来をすぐ前のご主人に伺ったところ、次のような話を聞くことが出来ました。

 「この祠かい? これは、歴史に詳しい先生(静岡大学名誉教授・白浜の原先生のことです。)の話によると、江戸時代、この村からお伊勢参りをした人が無事に帰ってくると、その記念に立てたそうだよ。昔はほら、誰でもお伊勢さんに行けるわけではなかったから、代表のものが行ったんだろうね。それでその人が帰ってくると、自分たちもその霊験にあやかりたいと、待っていた仲間で立てたそうだよ。」

 なるほど、サイの神にしては道からちょっと離れているところに立っていると思っていました。でもこれで謎が解けました。夕方、この祠から西を見ると、山の間に沈む夕日が見られ、しみじみと昔のお伊勢参りに出かけた人々の姿が偲ばれますよ。
                                             
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