葉

宇土金のヒトボシ地蔵様を訪ねる
 探訪2004年7月24日  
 

 6月に仏教美術館で行われた特別展「下田市の石造物」を覚えていらっしゃるでしょうか。その中に、宇土金の「ヒトボシ地蔵」が紹介されていました。それは仏教美術館の近くの山の上にあり、昔はそこから海が見えたため、沖を通る船が安全に航行できるようにと、火を灯したから「火灯し(ひともし)地蔵」と呼ばれ、それが変化して「ヒトボシ地蔵」となったと紹介されていました。
 その時は、(そんなお地蔵様があるのか。どこから登るのかな。いつか行きたいな。)と思いました。もちろん具体的に教えてくれる人がいないと行けないでしょう。が、明日は1学期の終業式という7月22日の夜、歴史探訪仲間の村山さんから電話が入り、土曜日に案内してくれる人がいるから行きませんか、とお誘いを受けたのです。その日は歯医者にかかる予約を入れてあったのですが、このチャンスを逃したら次はいつ行けるか分かりません。もちろん歯医者はキャンセルして、集合場所に向かいました。

 その集合場所は、箕作神社から宇土金を見た所にある秋葉神社常夜灯です。そこから登るんですね。何となく地理が分かったように思いました。その秋葉神社も、この上にあるという話です。詳しいことが聞けるかもしれません。これは楽しみです。

 朝7時半にそこへ行きますと、すでに村山さんと3人の地元の方々が集まっていました。そこへ、仏教美術館の学芸員の田島さんがおいでになり、出発することになりました。

 登り口は、清文先生ちの前の道です。秋葉神社はそこから行くんだろうな、と思っていたところの道です。左に畑を見ながら林道を登り、まもなく最後の民家を右に見て山道に入ります。こ、これは案内してもらわないと分からないです。それに、かなり上の方にあるような話がされているので、単に個人で探索して見つかるようなお地蔵様ではないようです。


    さあ、出発です。どんなところへ行くのでしょうか

 さて、道はかなりの登り坂で、木が茂っているので眺望はききません。所々にイノシシの寝床だよ、という洞が木の根本にあります。確かにそこにはイノシシが背中をこすりつけた証の体毛が残っていました。(しかし後でハンターをしているTAKE兄さんに尋ねたら、それはいのししの寝床ではないらしいです。)ダニを取るための行水をしているのかな?

       こんな山道を行きます  1回目の休憩地点からの眺望です。かなり標高を稼ぎました


        いのししのねぐらではないそうです

 途中で分かれ道があったので、どこに行く道か尋ねると、「それが秋葉神社に行く道だよ。大きな岩の上に石の祠がのっているんだけど、どうもそれがなくなってしまったよ。下に落ちたのだろうよ。」ということでした。神社でなくて石祠なんですね。が、そちらの方を見ても鬱蒼とした木々が茂るばかりで、どこにあるのか、道はどうなっているのか、さっぱり分かりません。

 途中で2回休みながら、土地の方からいろいろな話を聞きました。それによりますと、毎年7月24日にはお地蔵様の前でお祭りがあり、たくさんの人たちが訪れたそうです。宇土金からは、下(しも)の道、中の道、上(かみ)の道の3つの道がついており、それぞれ土地の人たちがおにぎりなどを持ち寄って集まったそうです。お店も出ており、何十キロという氷を背負ってきた氷屋さんがかち割り氷を売り、子ども達はそれを大変楽しみにして食べたそうです。小杉原の龍爪さんのお話を思い出します。あちらも山の上の神社にたくさんのお店が並び、人の波が絶えなかったそうです。昔は娯楽がなかったら、こんなお祭りが一番の楽しみだったんだよ、と話してくれました。 

 さて、登ること1時間、道が稜線を外れて等高線に沿って歩くようになってから、急に左に曲がり、いよいよヒトボシ地蔵さまに到着しました。おお、これがお地蔵様ですか。辺りは小高い山の上を平らにならして広場を作った所です。そこに、宝珠を手にした単座像のお地蔵様が2つあります。「むかしはお堂が建っていたんだよ。ほらその名残の柱が残っているよ。」という声に促されて見ますと、たしかに柱と思われる朽ちた木が倒れています。
祭りの前夜はそのお堂に泊まってお籠もりをしたそうです。


    着きました。ここがヒトボシ地蔵様の祀ってある場所です

 まずはお地蔵様に合掌して見ていますと、何と右のお地蔵様には頭がありません。先祖がこのお地蔵様を奉納した、という方が、落ちていたお顔を拾い、リュックからセメントを取り出して捏ね、頭を載せてくっつける作業を始めました。そう、今日はお祭りの日。供養とお世話に訪れたのですね。


      2つのお地蔵様のお世話をしておられます

 無事にお顔がつき、赤いずきんとよだれかけもつけられ、お米やお菓子を上げられて、お地蔵様は元気になったようでした。連れて行ってくれた方々はリュックから缶ビールを出し、さあ一杯やろうじゃ、ということになりました。御神酒のつもりですね。私もサッポロ黒ラベルをいただきました。発泡酒よりおいしい〜。そうそう、お地蔵様には、嘉永六年(1853年)の銘がありました。ペリーが来航した頃に立てられたんですね。

 ここでもいくつか話を聞いたのですが、海を通る船に明かりを灯した、というのは、距離からしてちょっと苦しい言い伝えではないかということでした。灯をともしたのは、むしろ酒盛りをするのに明かりが必要だったからじゃないけ? とのことでした。そちらの方が現実味がありますね。でも言い伝えとしては船に向かって火をたいたという方が夢があります。
 また、こうしたお地蔵様はたいていどこの土地にもあり、みなお祭りを楽しみにして生活していたんだ、ということでした。

 ただ残念なのは、「こうして俺たちが世話をしていても若い人たちは後に伝えていかないだろうから、いつの間にかこのお地蔵様も忘れられてしまうな。」というところに話が落ち着いたことです。せっかく学校で「総合的な学習の時間」ができたのですから、何とかして伝えていきたいものです。

 さて、お地蔵様をあとにし、すぐそばにあるという山神様に連れて行ってもらいました。

 山神さまはお地蔵様から歩いて3,4分の所にありました。山を少し下りますとちょうど峠になっており、そこに、やはりお祭りの時に火を焚いたというくぼみがあります。その先の大きな岩の手前に石の祠があります。「大正九年再建」の銘があります。どうやらそれが山の神様です。傍らに自然石かと思われる石柱がありました。そちらが古い山の神でしょう。何と江戸期の古銭と思われる硬貨が一枚、備えてありました。

 そこの峠を向こうに下ると、滑川に出るとのことでした。いくつか道は分かれているそうですが、どんどん下ると滑川のどこかに出るそうです。また、滑川には龍爪さんがあって、今でも猟師の信仰を集めているそうです・これはいつか行ってみないといけませんね。次回の課題にしましょう。

 さて帰りは別の道を、ということで、「下の道」を歩きました。ここは近代美術館の駐車場につながっているそうです。踏み跡はしっかりしており、所々に炭焼き釜の跡が散見されました。

 休みながら下ること30分。下の道はここに出ました。近代美術館の駐車場です。ここにはたくさんの庚申塔が並んでいるのでそのことを尋ねますと、ちょうど鎌で示している側にかつて庚申堂があり、そこに並んでいたのをここに移したそうです。そうだったんですか〜。知りませんでした。

上原仏教美術館の東に出ました
   下の道は、近代美術館の駐車場に出ました

 出発地点の秋葉神社常夜灯に戻ったのは、午前10時半でした。3時間の行程でした。思ったより時間がかかったというのが実感です。でも、連れて行ってもらわなければ分からないところでしたし、色々な話が聞けたので、よい経験になりました。今回はデジカメが不調のため、明るい画像がとれなかったので、また行ってみることにします。滑川への道も気になりますし…。
 
                                             
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