静岡の姫街道
静岡県の西部には、“姫街道”という古道があります。磐田市見付から愛知県豊田市御油町までの約60kmで、東海道の脇街道として知られた“本坂通”という重要な街道です。“姫”というのは“女性”のことを指していて、そのやさしい名前がつけられたのは、警備の厳しい東海道を離れ、比較的女改めの緩やかだった脇街道にそれて往来する女性が多かったからだ、と伝えられています。
しかし“姫街道”は、県の西の方だけにあるのではありません。伊豆は南の町にも、あるのです。そして、その“南伊豆の姫街道”には、古くから語り伝えられた哀しい物語があったのです。
南伊豆の“姫古道”を歩く
“姫街道”というのはやや大げさかもしれません。特に女性が多く行き来したという訳ではないでしょうから、“姫古道”と呼ぶことにしましょうか。そのお話を今からいたしましょう。
川淵にて
ある日、南伊豆での探索を終えて車で山の中の道を走っている時、小川に沿った山道で妙なものを見つけました。

地表からの高さは1m20cmほどでしょうか
石塔のように見えたので、車を止めて近くで見てみました。自然石のようにも思えますが、明らかに人が立てた様子です。しかし表に文字は彫ってないし、年号なども見られません。
あるいは道路工事の際に作業員の人が何かこの石に感じるものがあり、善意で立てた、とも考えられました。しかしこのときは何だか分からず、そのまま見て通り過ぎました。
『南史』を読む
しかし後日、南伊豆図書館で郷土の研究機関誌『南史』をめくっていると、ある写真が目にとまりました。

あ、この写真の石は…
こ、これは…、あの川淵に立っていた石ではないでしょうか。
引き込まれるようにその説明文を読んでみると、この石がとても悲しい物語にちなんだ石柱であることが分かりました。その話を要約すると、こんな話です。
仲子姫とお安の哀史
今から380年ほど前の慶長時代のことです。京の都のお公家にある事件が起こり、関係一族に罰が下されました。お公家さんの娘、権典侍中院(ごんてんじなかのいん)仲子姫さまは伊豆に流され、新島を経て南伊豆町の二条という土地のある家で暮らすことになりました。姫は望郷の思いを切に抱きながら、遠い伊豆の空の下で年月を送りました。
時は流れて14年後。ようやく公家にお許しが出たので、姫も刑が解かれ、京に戻ることになりました。姫は涙を流して喜んだことでしょう。
ところで南伊豆で暮らすお姫様には、京から“お安(おやす)”という侍女がついてきていました。お安は自分と年の近い姫にとても親近感を持ち、熱心にお世話をするだけでなく、お姫様と心も一つになったように大切に思っていました。
しかしお安はその時、身重の体でした。しかたなく赤ちゃんが産まれて落ち着くまではこの地に留まることにして、一度は二条で姫をお送りしました。だがやはり下田までは行ってお見送りしたいと思い、姫の歩いた後を一人、追いました。
二条から山を越え、下田を目指して歩くうち、お安は徐々に体の具合が悪くなりました。そしてとうとう青市の上組の沢を越えているときに倒れてしまい、動けなくなりました。
まもなく村人に見つけられましたが、倒れたおやすの体には蚊や蟹がなりたかり、それを手で払うこともできずにいたそうです。村人達の厚い手当を受けたにもかかわらず、とうとうお安はお腹の赤ん坊と共に命をつなぐことができませんでした。
後年、この話を伝え聞いたお姫様は京から青市に子安神社を勧進し、村人達にお安の供養を託しました。つい数年前までは上組の人たちの手によって神社の手入れやお祭りがされていたそうです。
道順としましては、当時の道の事情ですから現在の車道の道筋とは違っていたようです。
まず二条から山道を歩いて図書館の辺りに出て青野川を渡ります。そこから南伊豆中学校の下を落合洞に入って奥山田峠を越え、青市の惣町に出ます。再び山を越えて青市の上組に至り、そこから大賀茂の柳沢に抜けて、そこからは今の道とほぼ同じ通りを歩いて下田へと出ます。そこから舟で熱海まで渡って、そこから東海道を京まで行く、という道筋だったようです。これは『南史』の事務局にの方よって考察されています。
私はこの物語を知り、ぜひその姫とお安が歩いた道を辿ってみたいと思いました。改めて『南史』を読みますと、会員の方が歩いた時の記録が載っていました。
2月11日、姫とお安が歩いた380余年の年月を隔たりを埋めるようにして、私は南伊豆に向かいました。
“姫古道”を歩く
姫が歩いた道をここでは“姫古道”と呼ぶことにします。
二条から下田への古い街道はいくつかの山を越えていますので、今その道を辿ろうとすると、大まかに言って4つの区域ができます。今回はそのうちの一つ、『南史』の会員の方が越えた落合洞から峠を越え、日野(ひんの)の惚町(そうまち)地区までの古道を歩いてみました。
地形図を見ますと、峠越えの道ははっきり点線で記されています。現在は南伊豆中学校の駐車場から入って峠に至る道が一般的のようです。

今回歩くのは、落合洞から惣町地区への峠道です
車を駐車場に止め、道を探しました。地図によりますと、パジェミ号の隣にあるアルミコンテナの裏辺りから入るようになっているのですが、それらしい入り口は見られません。しかたなく、コンテナの脇から強引に藪に埋もれた涸れ沢を歩いて登ることにしました。
ただしこれは『南史』に記載されている会員様が歩かれた「落合洞からの道」ではないようです。落合洞はこの中学校の敷地の北下方にある沢筋を指すようです。

地図にはこの辺りから東に入るように記されています

この溝に沿って上がっていきました
10m、20mと登っていったのですが、道らしいものは見られません。

でも道らしい道がありません
50mほど歩き、東に進路をとった時にようやく斜面に踏み跡らしい地形を見つけました。(帰りに改めて確かめたところ、地図には記されていないものの、本来の道は南中小学校の上から入るように残っていることが分かりました)

道のあると思われる東の方に見当をつけて、さらに強引に登っていきました
中学校の駐車場から70mほど登ったところで、右(北西)から来る道と合流しました。

初めは、んんん?この道はどこから来たのかな? という感じでした
最初は半信半疑で辿ってみましたがと、それは明らかに道でした。しかも十分に広い幅を持っています。これが奥山田峠を越えて惣町地区につながる道でしょう。

ようやくそれらしい道に出ました 30分ぐらい探すのに時間を費やしてしまいました
これは、明らかに道です。ようやく目の前の霧が晴れたような思いがしました。これで姫やお安と同じ空間を共有することができるのです。永い時を超えて…。

いい感じで私を導くように道が続いています
穏やかな道
道に大きな登り下りはありません。ただ周囲の景観はよくなく、淋しい感じがします。

周囲には木々が茂っています 暗い〜

でも古道の雰囲気は満点ですね
傍らに炭焼き窯の跡があります。かつては森が手入れをされて、木々の生え替わりも盛んだったことでしょう。時の為す技とは言え、山の姿は変わったものです。姫はどんな里山の風景を見ながら歩いていったのでしょうか。

炭焼き窯の跡ですね

昔は明るい雑木林の中を行く道であったことでしょう
変わる道の表情
道を見つけて15分も歩いたでしょうか、道が消えました。行く先を倒木が塞ぎ、そこからは山の斜面が落ち込んでいます。どうしたことでしょう。どこを歩いていけばよいのでしょうか。

み、道が消えています
地図に記されている道が消えている…。ちょっとあわてた私は、東側の竹藪に入りました。道があるとしたら、そちらの方だと思ったのです。しかしこれが見当違いでした。竹藪にはもちろん踏み跡はなく、歩いていくにつれ、手がかり、いえ、足がかりを失いました。

初めは明るめの竹藪だったので、道もこの中にあると思っていました
しかたなく、これまた強引に竹藪の中をへに東へと歩いていきました。

これはまるで“迷いの竹藪” 恐ろしい…
しかしこれは後で確かめたことですが、道は消えていると思われた地点から斜面をそのまま進んでおりました。そして竹藪の中にもはっきりと踏み跡がありました。私が早合点をして、勝手に迷ってしまったという訳です。(下の写真がその正しい道です)

薮を突っ切って道なりに進めば、こうした道がちゃんとあるのでした
奥山田の峠
竹藪の中の道は、ゆるやかに下っていました。そして100mほど竹の森の中を歩いたでしょうか。道が斜め左に弧を描くと、今度は登り坂になりました。暗く長い竹藪の中を歩くのは気が重かったですが、これですっきりしました。でも帰りも同じ道を歩くんですよね…。

竹藪の中を下りきると、道はゆるやかに左(北東方向)に曲がっています
道は右左にうねるようにして斜面を登っていきます。するとじきに目の前が明るくなりました。峠かも知れません。

竹藪の中を通り過ぎたようです 明るくなりました

目の前に窪みが現れました 峠でしょうか?
いつも峠に達するとわくわくする気持ち、そのときめきが今また胸の奥から湧いてきました。
この峠が、『南史』の記録にある「奥山田峠」でしょう。峠にはお地蔵様がおられ、ここがまさに昔の街道であったことを示しています。姫もお安も、ひとつ峠を越えて、さらに歩を早めたことでしょう。

奥山田峠のお地蔵様 高さ50cmほど
お地蔵様に銘は彫ってありません。村人の手によって路傍にお地蔵様が立てられるようになったのは江戸の後期になるあたりからのようですから、姫が越えた時代にはこのお地蔵様はおられなかったでしょう。峠の景色も今とは違っていたことでしょう。
歩いてきた方を振り返って撮影しました お地蔵様の風化が進んでいるのが残念
それから、お地蔵様の見ている反対側を見てみましょう。
そこにはこんもりとした岩があり、細竹で覆われていますが、3mほど奥に入って岩に登り、竹やツルを取り除いてみると…、

一見、何もない岩と薮ですが…
倒れた桜の木の下に何かあります。

な、何かあります・・・
それは、何と、桜の木に押しつぶされたお地蔵様です。

細竹の薮の中から単座像のお地蔵様が現れました(全体の高さは50cmほど)
お気の毒に、お顔がありません。『南史』に載っていたこのお地蔵様の写真にはお顔があったので、もしかしたら桜の木が倒れてきた時に潰されて散逸したのかもしれません。しかし、周囲を探してみたのですが、お顔の残骸は見つかりませんでした。粉々にくだけてしまったのでしょうか。何とも悲しいことです。
木を取り除こうと、肩で押し上げてみましたが、虚しくかすかに揺れるだけで、桜の木はお地蔵様の上からどこうとしませんでした私にできるのは、ただ祈るだけことでした。
峠を下って
峠を越えると、道は落ち込むように急な下りとなっています。道の表情が変わった、という印象を持ちました。

峠を越えました 道が急に落ち込んでいます

坂を下り切ると、沢がありました
下り坂を一気に下りると、倒れた木や竹が行く手を遮りました。下り切ったところにある沢にはわずかですが水が流れ、靴底を濡らします。

沢はこのように歩きにくい状態になっています

山田の跡を水が流れていきます

道はどこを通っていたのでしょうか
峠からほんの10分ほど下ったところで、またはっきりとした道が現れました。

これはまたはっきりした道が現れたものですね
山田の跡
そして前方が明るく開け、山田の跡と思われる平場が広がりました。

広い山田が広がっています でも惣町の里まではまだ遠い感じがします
地図に記された道は、この山田の傍らを下っていくようです。左手(北側)の奥まったところに廃屋が見えます。農作業に使われていた格納小屋でしょうか。

実際は小屋ではなく、住居だったようです
失礼して敷地内にお邪魔したところ、小屋ではなく、住居や農作業場などが建っていました。山田で農業をしていた人の家屋なのでしょう。
山田の跡は、ゆるやかな段々になっています。姫とお安が歩いた頃には、周囲の山々に手入れがされ、美しい里山の風景が二人を見送ったことと思います。
道の跡を探しましたが、踏み跡は分かりません。まもなく南側に沢の流れができますので、そちらを歩いていきましたが、もはやどこもかしこも藪が濃くなり、いたずらな枝々に何度帽子を取られたことか…。

山田の跡を薮が埋め尽くそうとしています

かろうじて下っていけるところもありますが…

やがてそれも叶わなくなりました
道らしい道がありませんので、しかたなく沢を下りました。

辛うじて歩けるのが沢筋でした
ほんのわずかに、もしかしたらここが道だったのかな、と思われる痕跡が見られました。

道の跡でしょうか?
薮の中では、アオキ(昔は牛の餌にしていたそうです)が赤い実をつけていました。ちょっとだけほっとするひとときでした。

小さな赤い実です 食べられません…よね
新たな道
薮と格闘しながら山田の跡に沿って20分ほど歩いた頃、藪が薄くなって、前が開けました。そこには新たな道がありました。
そしてそこには朽ちた1台の軽自動車が置いてありました。
置いてある、というより放置してあるそれは、昭和40年代に生産された三菱自動車製の軽自動車、「ミニカ」でしょう。「ミニカー」ではありません。「ミニカ」という名の車が販売されていたのです。
当然、排気量は360ccです。
それにしてもさきほどの廃屋といいこの車といい、すごく「廃」の香りがする道です。

何だか「廃」の香りがする古道です

うーん、無惨・・・
しかし車がここにあるということは、とりもなおさずここまで走ってくることができた、ということです。周囲に廃棄された古いテレビなどの電化製品があることから、もしかしたらさっき見てきた廃屋と関係があるかもしれないと思いました。
(後に見てきたところ、さきほどの廃屋は元々住居として使われていた家屋で、そこまで確かに軽自動車が通ることのできる道が残っていました)
軽自動車のある平場からは、二間ほどの幅がある道がついています(実際には北にある廃屋までこの道は続いています。住んでいた人の生活道路だったのでしょう。姫とお安の歩いた道がそのまま拡幅されたかは分かりませんが、大きく異なることはないでしょう。

山田の中の薮を下って、ちゃんとした道に出たところです
ここからどのくらい歩けば、里に出るのでしょう。ここはまだまだ山の中で、見当がつきません。金属製の電柱だけが妙に新しく見えます。

元はここを軽自動車が通ったということでしょうか
左手の下の方には、杉林にはなっていますが、やはり山田の跡が続いています。

左下のかなり低いところには杉林になった山田の跡が続いています
軽自動車の置いてある場所から200mほどあるいた所に、鬼太郎の妖怪ポスト…、じゃなくて、先の廃屋のものと思われる郵便受けが立っていました。

手紙が入らなくなって何年経つのでしょう
ポストを見て50mほど歩くと、突然目の前が明るくなって、こんな砂防ダムのような形をした堰堤がありました。その上が道になっています。やはりここは生活道路だったようです。私は里に下りたのでしょうか。
堰堤の上がちゃんと道として確保されています
橋の向こうに、舗装林道が見えました。町道に出たのでしょう。ああ、ようやく姫街道の一区間を歩くことができたのです。
感無量!

出ました〜 町道に辿り着いたのです
ここがどこであるかはまだ分かりませんが、コンクリート舗装がなされた町道でしょう。

左が青市の上組方面で、右が日野(ひんの)方面と思われます
ほかの姫古道はいずこに
資料に寄りますと姫もお安もここから青市の上組に出たということですから、この舗装林道を南に下って日野(ひんの)に行ったとは思えません。かといって北に舗装林道を辿るようにして歩くのもやや大回りになります。もちろんその当時は林道など有りませんでしたので、古道は別にあったと思います。
上の画像をよく見ていただけばお分かりになると思いますが、舗装林道をそのまま横切って山に入る道があるように思えます。地形図にその道筋は載っていませんが、道が残っているかもしれません。やや不安ですが、次は山に入って、姫とお安の歩いた跡を探してみましょうか。上組にあるという子安神社にもお参りしてみたいです。
歩き終えた後、車で日野から入ってみました。先ほどの舗装林道は、日野のこの地点に出ます。飯泉自動車のところです。

日野地区に出た地点です
日野地区に出たところの三叉路に、こんなお地蔵様がおられました。ここもまた古道だったのでしょう。

どんないわれのあるお地蔵様なのでしょうか…
冬の陽光に包まれて
一通りの探索を終えた後、青野川湖畔にある菜の花畑に寄ってみました。畑は一面、黄色い菜の花の絨毯が広がり、たくさんの観光客が散策をしていました。

いい雰囲気ですねえ〜
川面には、爪木崎から飛んできたと思われる黒鳥がペアで泳いでいました。

仲良く泳いでいます でも渡り鳥でしたっけ?
終わりに
南伊豆には、「一条」や「二条」といった、京に似た地名のついた地域があります。それはけっして仲子姫とお安の物語と関連のないことではないでしょう。
ここから先、姫とお安が歩いた道を偲ぶのは先の機会になりますが、二人の思いが少しでも南伊豆の山合いの古道に感じられることを祈って、歩いてみたいと思います。
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