葉

河津から見高に東浦路をたどる〜其の一
探訪2005年8月20日   
 
 お彼岸を過ぎたとはいえまだまだ暑い8月19日、伊豆の助さんご一家が、河津のご子息宅においでになりました。伊豆の助さんは、お住まいの大和市ではすでに歴史探索家として名が通っているそうです。今回はぜひ東浦路を探索したいという熱意を持たれての来豆です。
 さっそく連絡を取り合って、翌日、恒例のkawaさんちでお昼タイム。お孫さん達を交えて楽しく談笑しながらおいしいうなぎ料理をいただきました。

いざ出発
 らいおんさんとこらいおんちゃんとkawaさんちの前で分かれ、伊豆の助さんと私はそれぞれ河津のご子息宅に向かいました。伊豆の助さんのご子息のお宅の前の坂は、東浦路そのものなのです。

 上から下まで歴史調査の出で立ちで身を固めた伊豆の助さんと、いざ出発。峠手前のお地蔵様や石畳は健在なのでしょうか。また、今回新しい発見はあるのでしょうか。そして二人の道中はいかに(もしかして珍道中に成り果てるか?)。胸が高鳴ります。


     石畳の残る東浦路 長年しっかり管理されてきたようです

崩落を乗り越えて 
 ここを訪ねたのは一昨年でしたでしょうか、らいおんさんやりゅうさん、鴎七号さんたちと、この左手にそびえる城山に登った時でした。 こんなに暗い道だったかなあと思いながらしばらく行きますと、「この先崩落につき通行止め」との立て札があるではないですか。そんな大雨、いつ降りましたっけ…。でも、歩いていくのですから、何とか乗り越えられるでしょう。一縷の望みを道に託して歩いていきました。

 すると、おお、本当に山の斜面が崩れて、東浦路も消えていました。が、既に重機が入って補修作業をしているようでした。幸いにも乾き始めて固くなった泥を踏みしめて、ここを越えました。城山への分岐も赤子を抱いたお地蔵様も、この先にあります。


     歴史探索家 伊豆の助さん 鋭意画像撮影中

石畳の路
 東浦路は石畳が見られる道です。春に磯崎さんと訪ねた白浜から縄地への道にもそれがありました。道を作った人々の知恵でしょうか。雨に流されないようにと工夫した所産でしょう。この東浦路にもそれはしっかり残っています。ただし、江戸期以前に敷かれたものか、昭和になって作られたものかは分かりません。丸石は比較的新しいように思えるのですが…。


      だんだん道が険しくなってくる辺り

誰が立てたか赤子を抱いた地蔵様
 下田街道では、峠を前にして力尽きた旅人があり、その苦行を弔うために立てられた、という地蔵様を見ることがあります。ここ、城山と片瀬山に挟まれた東浦路もかなりの坂道で、その昔は行き倒れになった人もあったかもしれません。左手に、光背型単立像のお地蔵様が立っています。

 光背に刻まれた銘を読んでみたのですが、墓石と分かる戒名や「童子」「童女」などの文字は読めませんでした。立てられてた年号が文政八年のように読めるので、江戸後期にここを歩き、赤ちゃんを抱いて行き倒れたか赤ちゃんを亡くしたかという親が立てたのでしょう。何も言わずに立っているその姿を見ていると、涙をさそいます。去年の台風によって倒れたというこのお地蔵様は、心優しき伊豆の助さんの手によって修復されたのでした。


    光背が一部欠けているものの、彫りははっきりしています

峠の地蔵様
 城山への分岐を左に見て、石畳の道をさらに上ります。小さな火葬場跡(今でも炉が残っています!)の場所を右に見て左に道を曲がりますと、峠によく見られるような石造物があります。

 伊豆の助さんはこの石造物群に強い関心を持たれたようで、盛んに観察されています。
 私もちょっと考えてみたのですが、峠の地蔵様は道行く旅人の安全を祈るために立てられることが多いので、ここの大きな地蔵様はそのような願いが込められていると思います。ただここには地蔵様には普通付属しない常夜灯がありますので、たぶんこの近くにお堂かお社があったのではないでしょうか。灯籠の明かりを灯す部分が欠落しているのは、風化によって朽ちてしまったのかもしれません。それはよくあることなのです。(果たしてここから数歩登ったところに、広い更地が認められました。もしかしてそこに庵か社があったのかもしれません。)


       地蔵様や常夜灯が並んでいます

そして片瀬山の峠へ
 峠の切り通しというのは、風情があるものです。ここを越えて何人の旅人や行商人や親子が往来したのでしょうか。それは、峠を覆うようにして茂る木々のみが知っているのです。それにしても風がないせいか、いくつも蚊に喰われて足や腕が痒い痒い。半袖半ズボンで来た私も不用心なのですけど。一方、伊豆の助さんは準備万端の長ズボンなので、涼しい顔。違いが出てしまいました。


     河津−見高間の峠の切り通し 私の好きな景色の一つです

今井浜に下る
 東浦路は峠を下りるとすぐに町道に吸収され、一気に国道135線まで下ります。東浦路はここから国道を横切って、浜辺に沿った道を見高の港へと続きます。従って、ここは現在ある道を下りるしかありません。実際の古道はどこを通っていたのでしょうか。二人で考え込んでしまいました。とにかく現在はここかとおもうコンクリート道を下るしかありません。


  国道135号線が見えました(横断歩道の所です)

東浦路のメインストリート
 ホテル「かね吉」前で道を横切り、海岸近くの道を行きます。ここが東浦路のメインストリート。かつての道を拡張したのだと思います。左手には、石切場跡を利用した居酒屋「穴ぐら」があります。 



今井浜海岸
 ちょっと道を外れて海岸に足を運ぶと、浜は多くの海水浴客で賑わっていました。お盆を過ぎると人出は減りますが、まだまだ楽しめるのが伊豆の海です。わが家が4人揃って海水浴に出かけたのは、もう3年前の沖縄旅行に行ったからのこと。次はないな、という感じです。とほほ…。


   私が親に連れてきてもらった子供の頃(昭和40年頃)は、もっと人の少ない静かな浜でした

見高今井浜の切り通し
  海水浴客や駐車場の呼び込みの声を聞きながら歩きますと、やがて切り通しが見えてきます。そこは昭和になって開かれた切り通しです。東浦路はここで左手の坂を上り、港へと下ります。


   白壁の民宿の名は、そのまんま「坂」となっています

こここそが東浦路
 「ここが古道?」と目を丸くされる伊豆の助さんをお連れし、民宿「坂」の玄関につけられた階段を上って、民宿「浜路」と「平七」の前を通ります。「平七」の前で軽トラに乗ったご主人とお嫁さん(?)に挨拶をして坂を下りました。眼下には見高の港や丘の上の幼稚園が望めます。


  民家へつながる道のようですが、東浦路なのです


  坂の上からの風景 見高の集落の向こうに見えるのは、段間の丘です

坂を下る辺りに、古道らしさが残っています。


          一番古道らしいところです

坂の石造物群
 坂の途中の山側に簡単な祭壇がしつらえてあり、いくつかの石造物が納めてあります。
 かつてこの地の職場に勤めていたというのに、加藤清志先生の『伊豆東浦路の下田街道』を読むまでここが旧道だと知らなかった私。著書の中で紹介されている石造物群も、つい先日きちんと見ることができた次第なのです。



 ざっと見ますと、お地蔵様を中心にして、巡拝塔が多数あり、大日如来石塔が一基あります。ていねいに草刈りをしてあるところを見ますと、きっと近所の方が守ってられるのでしょう。そういうお世話が後世いつまでも続くといいと思いました。

歌碑 
 坂の石造物と向かい合うようにして三基の歌碑が立っています。誰がどんな歌を詠んでここに立てたか分かりませんが、きっと今井浜の美しい浜辺に心を動かされて歌を詠み、ここに碑を立てたのでしょう。なんかすごくいいなあ〜。


            歌碑が三つも…

徳本名号塔
 坂道を下りきる手前に、徳本上人の名号塔があります。自然石を利用した石塔に「南無阿弥陀仏」と彫ってあります。
 このような名号塔は、伊豆の各地に散見されます。徳本様がその地に寄って念仏を唱えることを多くの人々が喜び、記念に念仏塔を建てるのです。

 そういえば見高にまつわる昔聞いた話に、こんな話がありました。江戸時代、大変な人気があり、各地で引っ張りだこだった徳本様が、下田でお念仏を唱えるように招かれたそうです。そのことを聞いた見高の人たちが「ぜひ見高の地でもお念仏を」と願い、徳本様を乗せて下田に向かう船を待ち伏せ、強引に見高に寄ってもらって、お念仏とお説教をしてもらったそうです。この碑はもしかしてその時の記念碑なのかもしれません。


           ひっそりと立つ徳本名号塔

道は港へ
 坂道はじきに見高の港に達します。 ここから先、東浦路は田尻海岸まで太平洋を右に見ながら東に進みます。伊豆の助さんは、段間の丘に興味津々のご様子。さて後半はどんな旅の展開があるのでしょうか。


  港に着いた東浦路 もちろん昔の風景とは違うでしょうけど

                           第2部に続く
                                             
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