葉

東浦路〜片瀬を行く
坂歩き 2008年3月16日   
 
東浦路の片瀬を行く
 今回歩く東浦路は、東伊豆町片瀬から奈良本への道です。
 この部分は、賀茂郡内の東浦路の中では最も昔の姿を留めつつ、よく整備されている部分だと思います。なぜなら現在も小中学生の通学路として使われ、しかも自動車が通りぬけられない道幅が保持されているからです。このことにより、整備はされるけれども必要以上に拡幅されない、という状況が生まれています。なぜその様なことを知っているかと言いますと、片瀬は私が生まれ育った故郷だからです。

ではその姿をご紹介しましょう。

 東浦路は白田に入ってからは海岸沿いに進路をとり、北に進みます。 江戸時代には白田川の河口近くに木橋があったらしいですが、平成になって海岸近くに白波橋ができるまでは、河口から700mほど上流に遡ったところにかかった白田橋が最南の橋でした。 江戸期の橋については、大正になって撮影された林写真館蔵の写真がその姿を最も近い様子で伝えていると思います。河原には葦が茂り、その中に長い木橋が架けられていました。その写真は所有していませんので、お見せできないのが残念です。

 下の画像ではあまりよく分かりませんが、東伊豆町の片瀬地区は昭和40年代後半から土地区画整理が行われ、それ以前とはまったく異なった景観となってしまいました。以前は大小の田んぼが広がり、人家は山裾に控えて並んでいたのです。


         白田川河口とその向こうに広がる片瀬の浜

振り返ると、今来た白田の浜が見えます。東浦路は、向こうに見える大きな山が海に落ち込む麓を通っているのです。


                  片瀬側から見た白田の浜

海防の松
 片瀬の浜地区に入りますと、海岸線にひときわ目を引く大きな松の木があります。


         高くそびえる“海防の松”

 寛政5年(1792年)3月、時折太平洋沿岸に姿を現すようになった異国船に警戒心を抱いた江戸幕府は、老中松平定信を伊豆東海岸の巡検に向かわせました。その際の松平の一行は350人を数えたとも言われ、それは大変な行事となったそうです。

 三島から天城を越えて伊豆半島を南下した松平一行は、下田を経て、東浦路を通って江戸に戻りました。片瀬には3月28日に宿泊していきました。大人数だったため、片瀬と近隣の村の寺や民家に泊まったそうです。その途上、伊豆東海岸に松の木を植えていきました。これには、異国船から村々の様子を見えにくくし、また、その松林から洋上の舟へと攻撃をしやすくする目的がありました。それ故これらの松は「海防の松」と呼ばれています。

 昭和50年代に流行した松食い虫の被害を免れた海防の松は、樹齢180年を数えるまでになりました。今では見上げるほど高く育ち、片瀬の景色を作る大事な風物となっています。

はりつけの松
 その松の木の中に「はりつけの松」があります。これはかの昔、お寺に火を放った者を松の木に磔にして処罰したという謂われがあります。今でこそこの辺りは海浜公園として整備されていますが、数十年前は殺風景な海岸で、淋しいところでした。ただし、たくさんある海防の松の中でどれがその“はりつけの松”であるかは特定することができません。あるいはもう枯れてしまったのかもしれません。私が子供の頃をここで過ごした数十年前にはもっと松の木が多く、その中に「はりつけの松」と表示がされた松がありましたのですが。



山に向かう東浦路
 さて、話を東浦路に戻しましょう。海岸線を通った東浦路は、熱川の方へは向かわず、川口商店のある辺りから山手に入ります。そして峠を越えて奈良本へとつながっていきます。


       海岸線の奥は熱川ですが、東浦路は現地点から山に入ります

ここが片瀬浜地区の中心地です。まきば商店や川口商店(通称はセーマイ=「精米」)という商店や、共同湯があるほか、昔は東海バスの営業所がありました。画像の駐車場は秋祭りの会場になり、人々と祭囃子が広場を賑わしたものでした。今は通る人の姿が少なく、ひっそりとしています。この画像の中央部を曲がりながら上っていく細い道が、東浦路です。


         片瀬浜地区の中心地ですが、何だかひっそりとしています

道標
 まきば商店の向かい、共同湯の建物の脇に、高さ30cmほどの道標があります。


              見落としてしまいそうな小さな道標です

「右 熱川温泉ニ至ル 左 稲取ヲ経テ □□下 左 □東町 御成婚記念」と彫ってあります。根元の方がコンクリートに埋もれているので、まだ文字が下の方に続いていると思います。ご成婚記念に立てられたというのですから、昭和天皇がご成婚された大正13年(1924年)1月26日か、現在の明仁天皇がご成婚された昭和34年(1959年)1月14日に立てられたのでしょう。


       元の方が埋もれていますので、本当はもっと高さがあったようです

索を手にする道祖神
 東浦路が平地を離れて坂を上るようになる辺りから、家並みは街道に沿って坂に連なります。この辺りは昔から「坂町」と呼ばれています。平らな土地は田んぼにしたので、民家は自ずと坂の方に建てたのでしょう。



このように集落の間を東浦路は上っていきます。



坂町に入ってすぐの左手に石で作った小さな祭壇があり、片瀬浜地区のサイの神が祀ってあります。



 祭壇に鎮座するサイの神様は丸彫単座像で、手には索を持っています。このロープで疫病神を退治する、ということでしょう。お姿は横幅が広く、どっしりとしています。いかにも集落に入り込む災いを封じようという願いが込められた力強い形です。

 脇には3体の地蔵様が並んでいますが、その中の一つは双体神かと思われる石仏です。摩滅が甚だしいので断定はできませんが、形はそのように見えます。相体道祖神は中伊豆地区には多く見られるのですが、伊豆の東海岸や南伊豆にはあまり見られません。したがいまして、片瀬の地に双体神があるのは珍しい例と言えます。

坂町の風景
 しばらく上るとY字路になりますが、画像の左側にも正面の土手の上にも、かつては民家がありました。家が減れば、人も減ります。ひっそりとしているのは、そのせいでしょう。



太平洋を右手に見ながら、東浦路は上っていきます。



坂を上る道ですので、傾斜を緩やかにするために、このように曲がりくねっています。現在は拡張されてこのような道幅になっていますが、35年ほど前までは自動車の通れない細い道だったのです。
 振り向くと眼下には太平洋が広がり、東浦路ならではの景色を見せています。昔はもっと家が多かったように思いますが、ここが傾斜地であることと住人の高齢化によって、移転していったお宅もあることでしょう。



傾斜はかなりきつく、歩くのはきついです。火事にあったまま取り壊されない家が放置されており、殺風景な坂の姿になっているのが残念です。



これは、東浦路を分断する国道135号線を支えている石垣です。海岸通りから急な坂道を上ってここに至るまでおよそ10分。最後にこの石段を上ることで呼吸や心臓の鼓動はいっそう速くなります。



国道135号線に出ました。海岸から東浦路はご覧の通り押しボタン式歩行者用信号で国道135号線を横切り、山へと入っていきます。



待合坂
 東浦路と国道135号線が交わる所にバス停「坂町」があります。


          バス停「坂町」 通るバスは日に数本 淋しいものです

 片瀬の浜地区から熱川小学校に通う子ども達は、家から坂町を通ってこのバス停を越えたところに集まり、ある程度人数がそろったところで山を越えて学校のある奈良本に向かいました。したがいまして、片瀬ではここからの道を「学校道」と呼んでいました。

 この坂には特に名はありませんでしたが、この坂の話を私の歴史の先生に申し上げたところ、“待合坂”と命名してくださいました。ですからここではこの思い出の坂を、待合坂と呼びたいと思います。


            石垣に挟まれた“待合坂” 雰囲気にぴったりの名です

 そういえば、この坂の上り口にはかつて「まちあい」と呼ばれる小さな商店があり、駄菓子やくじ引き、学用品などを商っていましたっけ。「まちあい」はとうの昔にお店をたたみ、今ではごく普通の家になっています。 知らない人が見たら、かつてここに店があったとは誰も思いますまい。

そうして待合坂はさみしい山間部へと入っていきます。


          待合坂の一番奥にある家の前から見たところ

眺望が開けたところから歩いてきた方を見ることができます。今日は天気がよくなくて、鉛色の空から今にも雨粒が落ちてきそうです。海の色も重く沈んでいます。


           片瀬浜の景観 海防の松の威容が見てとれます

道標
 待合坂の両脇には里を惜しむように数軒の民家が並んでいますが、やがてそれらも途切れ、東浦路は山道へと入りました。ここからは、昔も今も寂しいところです。熱川小学校に通う片瀬浜の子ども達は、小学校1年生からこの道を歩いて通学しているのです。


               いよいよ寂しいところに入りました

ちょうど道ばたでに薄桃色の百合のような花が咲いていましたが、何という花でしょうか。昔も咲いていたように思います。



 国道を横切って山道に入り、5分ほど歩きますと、コンクリート製の古い水槽があります。そこが分かれ道になっており、正面に道標が立っています。  


                 丁字の辻に立つ道標

道標の表には、「右 むら道 左 いとう 奉納経秩父板東供養塔 施主 木田利七」と記してあります。木田姓は片瀬に古くからある姓なので、きっと名士だったのでしょう。側面には「文久二年八月十八日」と刻まれています。文久二年は1862年。当時巡礼に出た後、無事に帰ってきたことを記念すると共に感謝の念を込めて供養塔を道標とし、ここに立てたのでしょう。

 この供養塔兼道標は、もちろん私が子どもの頃からここにありましたが、サイの神といいこの道標といい、大して子ども達の関心を引かなかったので、誰もその由来を知らないまま大人になってしまったように思います。貴重な片瀬の文化財なのに。

いっそう寂しくなる東浦路
 東浦路は道標を左に進み、さらに上っていきます。道標を右に折れるとそちらもまた山道で、国道135号線の一段上を進むようにして湯ノ沢交差点近くの町道に接続しています。

 この東浦路は、今でこそ舗装されていますが、私が小学生だった頃は未舗装で、ごつごつした石が路面から顔を出す荒れた道でした。そこで地区や親たちが年に2回、道普請をして整備していました。でも時々転んで膝小僧をすりむいたものです。いえ、それよりも1年生の時からこんな淋しい山道を通学路として歩かなければならない境遇を恨めしく思ったものでした。片瀬に生まれたからにはしかたのないことなのですけれど。


           昔は舗装されておらず、よく転んだものでした

土手を上って俯瞰してみました。このように九十九折りになって上っていくのは、江戸時代以前からずっと変わらないのだと思います。


             昔も今も変わらない東浦路の姿を伝えています

峠の境松
 待合坂からさらに上ること約20分。前方が明るくなって、峠のようなところに出ます。左右から町道が来ており、車も通行できるようになっています。


            前方の明るいところが峠のようになっています

 ここを誰も峠とは呼んでいませんでしたが、片瀬と奈良本の村境であることを考えれば、片瀬峠と呼んでも差し支えないように思います。


         片瀬と奈良本の境 かつてここには松の大木があったといいます

 ここにはかつて「境松(さかいまつ)」という大きな一本松が立っていた、という話を聞いたことがあります。25年ほど前はまだ切り倒された後の大きな切り株を見ることができましたが、今日はただ草が覆うだけで、その跡を見つけることはできませんでした。

 ちなみにここから奈良本の集落に入ったところに「栄松(さかいまつ)」という文房具店があります。後でその店の人に聞いたところ、お店の人の住まいがかつてこの松に一番近いところにあったために「境松」という屋号になり、それをお店を開く時に店名としたのだそうです。

峠の地蔵様
 道が一番高くなっているところで右手を見ますと、半分に割れたお地蔵様があります。


        お地蔵様があるということは、やはりここが峠として認識されていたからでしょう

 割れた光背に残った文字を読みますと、「信士」「享保三年」「向町 向山」などと読めました。もしかしたら墓石なのかもしれませんが、峠で人々の往来を守るためによく置かれるお地蔵様としての意味があるのだと思います。

 ところでこの峠には他所から農道がつながっています。余談ですが、私が小学校2年生の時、こんなことがありました。
 友達と3人で下校途中にここを通りかかりますと、ワンピースを着た若い女性に出会いました。どうしてこんな民家がなく淋しいところに女性がいるのだろうと、子どもなりに不思議に思ったことを覚えています。

 女性は私たちに道を尋ね、ろくに答えられもしなかったにも関わらず、お礼にといくつかのキャンディーを手の平にのせてくれました。今考えると、あの女性は狐の化身で、私たちの様子を見に来たのではないかと思います。それほどに淋しい道と華やかな装いの若い女性の組み合わせが奇異だったのです。


             不思議な女性と出会った村の境

東浦路はここから緩やかに下り、奈良本地区へと入っていきます。


             村の境を越えてもなお暗い道は続きます

奈良本へ
 峠の一本松跡から東浦路は穏やかな下り坂になり、奈良本の地に入ります。
 最初に民家が見えると、その向こうにある大きな建物は熱川小学校です。 東浦路はその運動場の下を通り、奈良本の地へと入っていきます。


                熱川小学校の下を通る東浦路 

 運動場下から学校の門に近づきますと、右手にこれから越えていく奈良本の山が見えます。山といっても低山ですが、高低差に富むのが東浦路の特徴といえましょう。


             右奥に見える山を東浦路は越えていきます

東伊豆町立熱川小学校
 熱川小学校は現在、鉄筋コンクリートの校舎ですが、もちろん昔は木造校舎で、校庭にはひょうたん池があり、金魚を飼っていました。確かその池をバックに卒業写真を撮った覚えがあります。校庭には大きな松の木があり、私が卒業してからは、いつも1羽のフクロウが枝にとまっていたと聞きました。今ではそんな面影はすっかりなくなり、別の学校のような姿をしています。

校舎裏の石造物群
 小学校の裏には町立図書館があります。その図書館と向かい合うようにして、駐車場の一部に石造物群があります。道路工事をする時にここに集められたのではないでしょうか。


             木立の根元に石造物が並べられています

見ると、ほとんどは馬頭観音のようです。光背には江戸後期から明治の年号が刻んであります。


           「熱川小学校裏の馬頭観音群」とでも言いましょうか

道標と小橋サイの神
 さて東浦路に戻りましょう。
 小学校の門を左に見て先に進みますと、四辻に出ます。ここを左に行きますとやがて箒木山や天城万二郎への道となります。右は小橋地区を経て熱川へ下ります。道なりに中央を進むのが東浦路です。


           小学校先にある四辻 中央を行くのが東浦路

この辻には、道標が立っています。



銘を読みますと、「左方 伊東 代方 田氏 道 代方 □道」などの文字が読めますが、くずし字で書かれているので、「伊東 道」以外ははっきり読むことができません。 



文房具店「さかいまつ」のご主人が説明してくださいました。元は指さしているところにあったそうですが、工事に伴って今のところに移されたそうです。





       「伊東」とはっきり読むことができます 向こう側が下田方面です

四辻を突っ切って10mほど行きますと、左に石段が見えます。この上に奈良本小橋(こばし)地区のサイの神があります。


                 サイの神様に至る石段

 階段を上りますと、すぐに3つの石造物のあるのに気がつくでしょう。さかいまつのご主人の話によりますと、画像の中央と左の石像がサイの神様で、右は水神さまということです。

蚊に喰われながら水神様の銘を読もうとしましたが、どうしても読めない字がありましたので、帰ってから資料を紐解くとしましょう。


             左から小橋のサイの神2体、水神宮

ここでどんなお祭りが行われているのか尋ねてみたところ、正月のどんどん焼きのを行う時、この水神宮の上に載っている擬宝珠を火で焼く竹の根元に埋め、火が消えてからまた元に戻すということをしていると話してくれました。そうした風習があるのはこの辺では奈良本だけだそうで、そういえば確かに色が黒ずんでいるように見えました。


         上に載っている擬宝珠をどんどん焼きの火にくべるそうです

左のサイの神様は木立の陰で何かを思うように静かに佇んでいました。もしかしたらここにサイの神様がいることを知らない人たちも増えているのではないでしょうか。そのことを思って、サイの神様はどことなく沈んだ表情をされているのかもしれません。



東浦路はここから旧国道と交差しながら北川への峠越えを目指していきます。


                                             
トップ アイコン
トップ

葉