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東浦路を歩く〜稲取 天王坂
探訪 2007年12月22日   
 
稲取村を見下ろす坂
 下田から辿る東浦路は稲取村の中心地を抜けた後、現東伊豆町役場の裏をかすめたのち、稲取港の海岸線に出る。今でこそ埋め立てによって海岸線は遠くなったが、江戸期には石浜が今の道路の辺りまで迫り、湾内の小さな波が打ち寄せていたという。



 今は誰も作業する者がおらず寒風が吹き抜けるだけの“ぶどないや(天草干し場)”の辺りで、東浦路は坂道にかかる。ここを直進しているのは旧国道135号線である。


             かつて天草を洗っていた水槽に水はない

 そちらの道は本来なら黒根岬を越えて3つのトンネルをくぐり、東伊豆町白田に通じていた。しかし昭和53年の大島近海地震によって回復不能な被害を受け、廃道となっている。現在、主たる上り方面は稲取高校下の唐沢を越え、新トモロトンネルを抜ける国道135号線となっている。


             左に折れるのが東浦路である

東浦路は伊豆急行線の線路をガードでくぐり、上っていく。


              車のすれ違いは困難であろう

 東浦路はほぼ江戸期以前のルートのまま町道として拡幅され、町民の生活道路や稲取高校生の通学路として活用されている。しばらく上ると稲取の街並みや港を一望することができる。この坂を歩く旅人は時々港を見下ろしてはこれから続く旅路を想ってほっと一息ついたことだろう。

「天王さま」
 正式には素盞嗚(すさのお)神社であるが、地元の人々には「てんのうさま」や「てんのうさん」として親しまれている。
 建立は元和3年(1617年)、祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)を祀る。「天王」の名は、その昔、天王祭が大変流行した名残を示すもので、平安時代中期から始まった、牛頭天王を祀る祇園祭(ぎおんまつり)が関東地方に伝わったことに由来すると言われている。


     天王様の鳥居 参道は境内まで続いており上るのはかなりきつい

 祭りは7月15日に行われる。赤や青の装束を纏った男達が「あかっぱら」と呼ばれる木製の弾痕、じゃない、男○を模した丸太を手に持って町を練り歩き、女性の後をつけ回してそのお尻をつんつんする、という慣習がある。子孫繁栄と五穀豊穣、疫病除けを祈る習慣であり、稲取特有の奇祭となっている。
 ちなみにもっと有名な「どんつく祭り」もこれと似ているが、あちらは観光用の祭りである(稲取岬のどんつく神社に行けば、立派なご神体が祠に収められているのを見ることができる)。


           天王様の境内と社殿 この日は誰もいなかった

鳥居の脇に石造物が固めて安置してある。庚申塔や馬頭観音、地蔵様などだ。


       最も高いのが庚申塔である(高さ150cmほど)


   こちらは冠にお馬さんを戴いている 馬頭観音様であろう

三宅島二重遭難の慰霊碑
 明治35年3月31日から4月1日にかけて、押送船(おしょくりせん=中型の輸送船)が三宅島から本州に向けて出航した。しかし北西の強い季節風のため、船は遭難。その船には稲取西町(にしちょう)出身の船員が乗り合わせていたので、急遽、捜索隊が作られることになった。
 消防団員と親戚の者、合わせて8名が救助隊として船で出発したが、翌日、大波に襲われて船は転覆。2名は奇跡的に利島に及び着き、住民の手厚い手当を受けて助かったが、残り6名が行方不明となってしまった。

 この自らの使命を全うし、尊い命を捧げた犠牲者の行いをいつまでも伝え留めたいという願いを込めて、三宅島の見えるこの坂に「三宅島遭難の碑」を建てたという。


           天王様と忠魂碑の間にある「三宅島遭難の碑」

碑には、慰霊の言葉や遭難者の氏名などが刻まれている。


      既に一部が風化して読みにくくなっているのが残念である

『はんまあさま』の話
 稲取は漁師の町である(もちろん山の方の地域はみかん栽培などを生業とする農家が多いが)。板子一枚下は地獄、といわれるほど命がけの仕事をする漁師達の気性は荒い。しかし命がけだからこそ仲間の連帯感は強く、遭難時には危険を顧みずに救助に当たる。

そんなここ稲取には、漁に関するこんな話が伝わっている。『はんまあさま』の話である。

 「はんまあさま(草雛)」は、 稲取に昔から伝わる重陽(ちょうよう=陰暦九月九日)の節句の行事である。特に漁師の家でこの日を祝う行事が残っているという。
 この行事では、9月8日にハマユウの葉で武士の姿を形取り (この人形をはんまあさまと呼ぶ)、 他にイカやサンマの形をつくって一晩祀り、 翌日9日の夕方に『いかとさんまにならっしぇよ・・・』と唱えながら、 泣きまねをして海に流す。

 このはんまあさまの行事が始まったのは、次のような伝説による。

 昔、まだ稲取が小さな漁村だった頃のことだ。その年は、海へ出ても一匹の魚もとれず、漁師たちは、毎日、ぼんやり海を見て暮らしていた。
 そんなある日、漁師が浜に出て遠くの海を見ていると、一カ所だけカモメの群れが空いっぱいに舞い飛んでいる。

「とりやまが、ついたぞ。魚が寄っているんだ。漁ができるぞー。」と、漁師達は船を漕いで沖へ走らせた。

しかしいざ海鳥の集まっているところに行ってみると、そこには丸太を組んだイカダのようなものの上に、いくさに敗れたと思われる武士が 折り重なるようにして死んでいた。

 漁師達は落胆したが、かといってこの武士達の遺体を放っておく訳にもいかない。 海で働く漁師には、遭難者や仏様をそままにしておくことはできないのだ。
 漁師たちは日やけした手を合わせ、口々にお経を唱えた。そして遺体をイカダごと港まで引いていって、手厚く葬った。

 それからというもの、稲取の沖ではイカとサンマがたくさん穫れるようになったという。 それ故、今でも稲取の漁師は漁をさせてくれる仏様を「はんまあさま」 と言って、毎年9月8〜9日にお祭りをする。

何とも不思議な話ではないか。
これら「はんまあさま」の話といい「三宅島遭難の碑」といい、稲取の漁師達には人命を尊重して身を投げ出す気骨の精神が流れている事を示しているのだ。


忠魂碑
 日清と日露の戦争に出征して命を落とした軍人の名を刻んである。神社の境内かと見まごうような静かな土地に、英霊が眠っている。


         石碑には、稲取地内の戦没者の氏名全てが刻まれている

振り向けば、東浦路は稲取村を見下ろす辺りに達していた。


       手前に海防の松、そして港 向こうに横たわるのは稲取岬である

天王坂
 東浦路は右手に太平洋の大海原を見渡して上っていく。
 忠魂碑の前を通り過ぎると東浦路はゆるやかに左に曲がる。その先に数件の民家があるが、左に折れて登っていく小径がある。こちらが町道に付け替えられる以前の東浦路の姿を伝えているのかも知れない。


     左に分かれるのが天王坂の取付部  東浦路のかつての姿を留めている

 この道は稲取の村から山の手の共同墓地につながっており、天王様の北側にあることから「天王坂」と呼ばれている。車は通れない道で、舗装もされておらず、なかなか風情のある坂道となっている。

東浦路は天王坂を左に見て、つづら折りの様相を呈し、なおも上っていく。


       天王坂   突きあたりの黒い部分は天王様の境内の裏である


      舗装の色が異なっているのは、拡張工事を何度か行ったことの印だろうか

 道を歩きながらふと気がついた事があった。旧式の車止めにそれ以降のガードレールを併設してある。上を通る国道が主要道となってからは特に新式のガードレールに取り替えられることもなく設置されているのだろう。


       旧式の車止めを覆うように新式のガードレールが設置されている

 やがて東浦路は国道135線に接続する。
 国道は拡幅工事が為されているので、昔の様子を探ることは難しい。しかたなく稲取高校下の歩道橋で横断し、高校あるいはバイオパーク方面へと歩いていく。


        国道135号線に出た  右に見える丘は稲取高校の運動場


      東浦路は左に上っていく  2台のバイクが国道を風のように走り去った


             東浦路はこの国道の左上を通っている

三本松
 稲取高校の正門やバイオパークへ行く道を左手に見て、真っ直ぐ進んでいく。この辺りは稲取と白田の間でもっとも標高の高い位置の一つに当たり、風がまともに吹き付ける地点となる。今日もならいの風が頬に冷たい。


    現国道の一つ上の道を歩く   昔はここが国道だったような記憶があるのだが…

 バス停「稲取高校上」を過ぎて少し下ると、左手に祭壇があり、お地蔵様が祀られている。この辺りにはかつて大きな松の木が三本あり、「三本松」という地名がつけられた由来になっていたという。


      上ってきたこの車は右折してバイオパークかゴルフ場に向かっていった


        三本松のお地蔵様 自然石の塔は念仏塔のようだ

唐沢へ
 三本松の坂を下って信号を越えると、そこは唐沢の集落である。今でこそ食事処「魚庵」やその他の店舗などが建っているが、昔は淋しいところで、旅人も稲取の地を離れてこれから至る山越えの道に不安を抱いたことと思われる。東浦路は木々の間から相模灘を眺めつつ、ここから暗い森の道へと入っていくのである。


   稲取唐沢の交差点  遠く山の上に見えるのはアスド会館(旧電電公社労組の「団結の家」)

                                             
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