葉

東浦路を歩く〜稲取 お休場から白田坂へ
探索 2007年12月22日   
 
お休場と旧稲取灯台
 あわいの沢を越えた後、緩やかな坂を上って到達するのが、稲取と白田の境となる尾根である。
 東浦路はこの尾根を右から左へと回り込んで越えるが、ここを訪ねた2007年12月22日現在、大型ダンプが走ってきて尾根の手前で左上に上り、何やら建築資材や廃材を運び出している最中だった。狭い町道には不釣り合いなほど大きなダンプが行き交うので、わが小さなパジェミ号を停めて写真を撮るのさえ憚られてしまった。
 
さて、尾根(ここに2軒の民家、あるいは別荘が建っている)を回り込んだ東浦路は、じきに平らな土地に出る。ここが峠の「お休場」である。


      お休み場といっても個人宅であるので、静かに通行したい

 稲取と白田の境に当たる峠を、人々は「白田峠」と呼んだ。かつてここには茶屋があり、旅人が一服して疲れを癒したという。戦後間もなくまではここに大島桜の大木が20本ほどもあったので、峠の茶屋は「桜茶屋」と呼ばれていた。春は花見の宴で賑わい、夏は旅人に涼しい木陰を作ってくれたそうな。桜茶屋は柏餅や団子のおいしいことで里人に知られていたらしい。

 白田、片瀬、奈良本方面へ鮮魚を商いに行き来した稲取の行商の女性達は、タライのような魚の入れ物を背負ってこの峠を越え、里へ出ると頭へ載せて売り歩いたものだったが、この峠が、彼女たちの休息所で、夕方には売り上げの勘定をしたものだという。


      茶屋の面影は残っていないが、昔はかなりの賑わいが見られたのだろう


     灯台周辺は常にきれいに手入れされている 今も灯台守はおられるのだ

旧稲取灯台は高台から今も相模灘を見下ろして、行き交う船を見守っている。


       旧灯台はこれまでの幾多の地震にも倒れることがなかったという


 さて今回の探索の本題はここからである。

 唐沢から稲取灯台までは、今紹介したとおり、整備された町道が通っている。しかしそれも旧灯台の下までである。ここから先は通行止めとなって、一般の人の往来を迎えていない。


        竹垣の向こうの道も東浦路の正統な姿を伝えているように見える

 しかしそれは道路を管轄する国土交通省あるいは町の行政が行っていることではなく、知らずに迷い込んだ善良な町民の安全を守るための“善意の通行止め”である。したがって、私たちも良識に則って、ここから先の歩行を回避しなければならない。

伊豆のさった峠
 いや、しかし、それでは探索にならない。自己責任で、などと言う気はさらさらないが、ここはひとつ私が代表でここから先の道を探ってくることにしよう。加藤先生に行けて私に行けないことはない、と思う! (←調子に乗るな!の声ありか?)

失礼して竹のバリケードを跨いで越える。道はこちらに続くのが自然、と言わんばかりに当たり前のようにつながっている。


               いい雰囲気で道は続く

遥か眼下に、荒磯に打ち寄せる相模灘の白い波が見える。海面からここまでは数百mもの高低差があるだろう。


         中央右に見える突端はトモロ岬のそれであろう

 なぜこんな高いところに東浦路は作られたか。それは海岸近くは断崖絶壁のために道を開くことができなかったからである。だから、こうして海を遥か見下ろす高い所まで来ないと工事が可能にならなかったのだ。

 伊豆の街道は所々でこうした難所に道を開いて人々の通行を可能にしてきたが、それは自然に逆らうという、大変に危うい面を持っていた。故に街道を保つための管理、すなわち道作りは不可欠なものであり、それを怠ると徐々に道は失われた。

 昭和初期に海岸線に近いところを切り開いたり隧道で岩場を貫いたりして作られた旧国道135号線(それでも海面から80mほどは高いと思われるが)は長い間人々の乗る車両の通行を確保してきた。しかし昭和53年の地震によって廃道に追い込まれたことはご存じであろう。災害に呑み込まれた旧国道135号線は、今、時折訪れる物好きな探検家のターゲットとなる以外は潮騒を聞きながら沈黙している。この辺りの道路は災害に弱いのだ。

 事実、災害発生時に人々の通行を可能にするための災害対策道路がこの遙か上の方に建設されている。稲取−白田間の東浦路は、自然の脅威と人間の体力とを秤にかけ、ぎりぎりの均衡が保てるところを選んで切り開いたと言えよう。

 話が長くなった。お休場を出発した東浦路は、ここがなんで通行止めなの?と拍子抜けするほど普通の道の姿を見せている。


    どうしてここが通行止めなの? と思うほど穏やかな表情を見せる東浦路

 竹の簡易バリケードから80mほど進んだ所で、あれれ? 手作りのブランコが木の枝からぶら下がっている。

周囲を見回すと、左手上の高いところに民家がある。どうやらそこの住人がこしらえたものと思われた。しかし人の生活している気配はしない。不思議だ。


         このブランコを揺らすのは、今は風しかいない(と思う)

右手には、木々の間から太平洋相模灘の水面が冬の弱い太陽の光を鈍く反射しているのが見える。

と、下の方から電車の走行音が聞こえてきた。耳を澄ますと、自動車の行き交う音も微かに聞こえてくる。土手の上に立って前方下を覗いてみた。よくは見えないが、急な傾斜の少しでも緩やかなところを選んで、伊豆急行線と国道135号線が並ぶようにして通っている。


      白い波濤を見せる海岸線の近くに2つの“交通の動脈”が通っている

見たことがある! これと似た風景を、写真で。貴兄も思い当たるであろう。

 そう、東海道由比にある薩た峠(さった峠…「た」の漢字がPCで出てこない〜 「土」と「垂」が合わさった漢字なんだけど)だ。あの、由比と興津の間の、崖の迫る海岸に東海道線と国道1号線と東名高速道路が並んで通っているあそこにそっくりではないか。ここは伊豆の薩った峠なのだ。

おがみの坂
 いよいよ道が下り坂にかかるという地点に、大きく岩を削って堀割にしたところがある。これほどの岩を穿たないと街道を開くことができなかったのか、と印象に強く残る光景である。いよいよ東浦路は歩く者にその牙を剥くのか?!


         こんな凶悪そうな顔を見せる街道は今までなかった

 ここを“おがみの坂”と呼ぶのは、手のひらで合掌するような切り立った壁に挟まれた坂道であるからというのが理由とされている。

 しかし一説には、先に紹介した『甲申旅日記』の小笠原長保を案内した里人が「昔の人の口伝えで“大網の坂”といって、頼朝公の乗り給ひし“生月(いけづき)”という馬を網にて捕らへたりし故の名を聞けり」と言ったことに由来するともある。要するに、“おがみの坂”は“大網の坂”から転じてついた名であるとのことだ。

 また、「山の上には芝生の原ありて、左りの山奥二里ばかりに“青鈴が池”というありて、この馬に水かひし処という給う。今はこの池のほとり、馬桜ありて、春は人も訪来てにぎはふとなん。この峠よりして白田村なり」と話したとも言われている。

 “青鈴が池”というのは八丁池のことである。八丁池の南に「青スズ台」というビューポイントがあって、我ら伊豆仲間が元旦のご来光を拝む“初日の出オフ”を毎年恒例行事としているのは奇遇であるが、ここでは関係ない、ですね…。

“おがみの坂”の大岩を見ているとここからどんな難所が待ってるのか恐ろしくなるが、道は傾斜をきつくしながらもはっきりと踏み跡を保って続いている。


       おおおお、道は続いている ここから先はどんなだ?


            道は海に向かって落ちていく・・・


         かなりの下り坂になった 冷風が道を吹き上げてくる

 堀割りとも切り通しとも言える険しい部分を越えると、道はつづら折りの様相を呈してくる。全くの手作りの道である。渡る寒風に襟を立てて歩いていると、そんな道の風景と、右に見える空や太平洋の薄青色とが相まって、自分自身が江戸時代の旅人になった気分がしてきた。自分は今、どこにいる…?


            何度も砂利で足が掬われそうになる 


            何やらいっそう荒れたところに到達したようだ

つづら折りの難所
 銀色をした簡易電柱が白田方面に一本の電線を伝えている。意外とこの道は電線のルートになっているのかも知れない。それにしても細い線なので、限られた家屋に通じる通信線かも。


               おやおや〜、道はどっちだ?

 かつてはこの辺りに馬頭観音の石仏があったというが、地震で流されてしまったらしい。なるほど確かに地震でもあれば地滑りを起こしそうな、いや過去に起こしたであろう地形をしているところである。道下に目をやると、足を踏み外したら滑落していきそうな急斜面である。しかも木立に遮られてその先は見えない。

 と、明らかにここは過去に崩落したことがあるな、と思われるところで道を見失った。まっすぐ進んでいるのか、下に下っているのか、それとも折り返して逆方向に向かっているのか、分からないのである。


        道は行くのか、下るのか、戻るのか・・・?

 (もはやここまで…?!)と心の中で呟く。しかし諦めたくない。何か手がかりは? と思ってしばし考えていると、さっきの電柱の次の一本が立っているのが目に留まった。


      おお、これは道の先を示す、もの言わぬ救世主か

見えた! きっとあっちだ! 


        およそ海を目指して斜めに下降するルートが保持されている 

よく見ると、道はつづら折りになって、おおよそ今来た方からの方向を保って北東に抜けようとしている。迷うことはない、あれこれ詮索しないで斜めに下降を続ければよいのだ。

新トモロトンネル
 それでもここが一番肝を冷やす箇所だった。

 ほっと胸をなで下ろすと、自動車の走る音がする。復活した踏み跡を辿っていくと、いきなりトンネルから吐き出される車の影が見えた。


          走る車の音が聞こえている  ここはどこ?

 コンクリートの上に立つと、すぐそこに新トモロトンネルの坑門があった(この下にある旧国道のトモロトンネルと対比する意味で便宜上“新”をつけている)。


      あ、あれはN山配送 T屋さんの車か(あ、、個人情報…)


            トモロトンネル東口のこんなところに出た

 モロトンネルの「トモロ」を漢字で書くと「友路」となる。開通は昭和42年、延長は425.5m、制限高は4.0mである。

ま、それはいい。ここまでの道のりを振り返って貴兄に伝えたいのは、峠のお休場からここまでは意外と距離が短い、ということだ。お休場のある場所はこのトモロトンネルの直上にあり、そこからここまで、歩く区間は200m程度ではないだろうか。道さえ過たなければ、お休場からトモロトンネル坑門までものの15分程度で来てしまうだろう。(だからといって、簡単に来られる訳ではないので、注意してネコ)


         車と歩行者がなかなか相容れない道路である  危険だ〜

白田坂
 さて、東浦路はこのトンネルの前辺りで忽然と姿を消す。

大筋で現在の国道と同じ向きと傾斜を同じくして下っていったと思われるが、何分にも国道がその存在をアピールして横たわっているし、幾たびもの地震や豪雨によって何度も道路は付け替えや拡幅工事がなされ、往年の姿はない。第一、この先の山の斜面は昭和51年7月の集中豪雨によって地滑りを起こし、それこそ一面が海まで流されてされてしまったのだ

 加藤先生はそのご著書の中で「ここは国道135号線を歩いていくしかない」と書かれ、「適当なところで伊豆急線の側道へ階段を伝って降りる」と記しておられる。それしかないのである。

 今回の探索では、国道は歩かなかった。危ないし。

 最後は、トンネルの坑門脇から廃道となっている旧国道へ降りてみた。ここはかつて“白田坂”と呼ばれたところらしい。少しでもその雰囲気を味わってみたかったのだ。


            ここは“白田坂”のはず  でも・・・

 しかし、状況というか結果は惨憺たるものだった。“白田坂”は、辛うじて踏み跡を探すことはできたが、それはまるで“ゴミ坂”であった。夥しいゴミ、ペットボトルやお菓子の空き箱などが散乱し、目も当てられない惨状を呈している。


        薮+ゴミの攻撃に、思わず(参った〜)と音を上げた

 ゴミと薮に辟易しながら、それでも強引に降りていくと、廃屋の裏に出た。ぐるりと建物を回って旧道に降りる。吹き抜ける風は尚も冷たく、誰も通らない廃道の枯れ草を揺らしていた。


     何の建物だろう 別荘のような感じだが

別荘かと思われた建物は、放置された観光施設だった。

 そのエントランスの階段を降りて、旧国道135号線に立った。この背後で道は閉ざされ、廃道となっている。辺りは殺風景な景色が広がっている。東浦路はもう少し先でこの標高まで降りているはずだ。


         旧国道135号線に立って白田方面を見る 荒れた風景だ

次に人の生活の息吹きに触れるのは、白田の集落に入るのを待たなければならない。

                                             
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