4月に磯崎さんと白浜から縄地へと東浦路を歩き、縄地鉱山の跡地を訪ねたのは、まだ記憶に新しいところです。
その時は、鉱山事務所周辺を見てから白浜へ引き返しましたので、今回は、鉱山事務所から先の東浦路はどうなっているかを探ってみたいと思います。(季節は夏真っ盛りですので、古道は夏草が生い茂ってとても歩ける状態ではないと言うのも、こちらを訪ねる理由の一つです。ちょっとずるいかも))
縄地峠からの東浦路は、農道、あるいは町道として管理及び利用がなされており、旧国道135号線から自動車でも下ることができます。ただし、前回訪ねた石造物のある峠からは、徒歩で下る道が東浦路の本来の道筋と思います。

東浦路は右手から合流して縄地へと下ります
縄地の集落に下りる道は、かなり急です。ここを登る時は、かなり体力を使ったでしょう。なにか「○○坂」というような名前が付いているのではないでしょうか。知りたいものです。

右に見えるのは、放置された廃車です その奥に鉱山跡が…

すごい急坂 上るのにはつらい坂だったでしょうね
大日如来石塔
道の左右に家々が並び始めた辺りで、ひとつの石造物を見つけました。今朝手向けたと思われる新しい花が石柱に色を添えていました。

現在の道から外れた東浦路は誰も通わず、ひっそりとしていました

昭和二十三年に建立されたと銘のある大日如来
左を振り向くと、山の中腹に鳥居が見えます。近くには無縁さんらしき墓石がいくつも並び、この地の歴史を感じさせています。もちろん上って参拝したが、何の神様かは記されていませんでした。実は拝殿の前にトロッコのレールがあるという山神様を探しいるのですが…。

さてさて、さらに東浦路を下る事にしましょう。吉田松陰や松平定信がこの路をたどって歩いたという思いだけでもう十分胸がいっぱいなのですがね。
下条へ
今来た細いコンクリートの道は、じきに国道へと出ます。出たところは、東海バス「下条」のバス停になっています。すぐそばには石丁場の跡があり、石室が大変に細い祠が祀ってありました。何を祭神としているのでしょうか…。

バス停「下条」上り側です
イズノスケみっけ
また、こんなものもありました。誰が描いて置いたのかな?

「なかよくべんきょうしてネ」の文字が泣かせます
東浦路は国道を横断し、下条地区に下ります。今週末はお盆と重なっているので、国道を通る車がとても多いです。左右をよく見て、命からがら、交通事故にならないように余裕を持って横断しましょう。
下条のサイの神
坂を下りきる少し手前右に、いくつかの石造物があります。きちんとした祭壇もあるので、地元の人たちによって祀られているのでしょう。
下条のサイの神は、古い東浦路と新しい国道に挟まれて、今でもひっそりと佇んでいます
石祠は、この下条地区のサイの神だそうです。ほかは、大日如来の石塔や回国供養塔などです。
東浦路は、このすぐ先の四辻を左に折れ、また次のT字路を右に曲がってはっつけ坂を上ります。家並みはそろそろとぎれ、峠を越えて下れば、トンネルの河津側出口に出ます。ここから先の東浦路は、ガソリンスタンドの脇を上って旧道に出るそうなのですが、それは後日の調査に送りたいと思います。実際に行ってくださる方がいないと分かりにくいようなので。
ここでちょっと足を海岸の方へ向け、子安神社を訪ねてみることにしましょう。ちょっとだけお付き合いください。
子安神社
車がびゅんびゅん通る国道を見上げるようにして集落を下りますと、海岸に出ます。そこには、子宝や安産の神様である子安神社があります。
鳥居の下に「延喜神喜式内社子安神社」と刻んだ碑が立っています。
延喜式内社
延喜式というのは『延喜式神名帳』という台帳のことです。資料によりますと、このようになります。
「延喜式神名帳は平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典で、醍醐天皇により延喜五年(905)八月に編纂を開始、二十二年後の延長五年(927)十二月に完成した。
五十巻三千数百条の条文は、律令官制の二官八省の役所ごとに配分・配列され、巻一から巻十が神祇官関係である。 延喜式巻一から巻十のうち、巻九・十は神名帳であり、当時の官社の一覧表で、祈年祭奉幣にあずかる神社二千八百六十一社(天神地祇三千百三十二座)を国郡別に羅列している。ここに記載された神社が、いわゆる「式内社」である。つまり、式内社は、平安時代(10世紀)にすでに官社として認定されていた神社であり、由緒ある神社として知られていたことになる。
」
すなわち、小安神社は由緒あ〜る神社であることが分かります。
その上、ここには慶長時代の金山開発で縄地が賑わった頃に金山奉行であった大久保長安が奉納した鰐口(ドラのような鳴り物のこと?)が残っていたそうですが、今は役場に保管してあるそうです。
拝殿の戸はもちろん閉じていましたが、元気な赤ちゃんが授かりますように、と願いが書かれた布が格子に結びつけてありました。
縄地の磯と古川先生
縄地の海岸はほとんどが玉石で、左右の岸壁は荒磯になっています。
惜しくもおととし亡くなった稲梓の郷土史家、古川智先生は、子どもの頃に落合の峠を越えて縄地へ磯ものを獲りに来たものだったよ、と語ってくださったことがありました。落合は、その通り、縄地の磯から獲れた海の幸が他からもたらされた産物と落ち合う所だったのでしょうね。
海善寺跡
さて、途中でこのような石垣を見つけました。何だか歴史がありそうですね。

ここを過ぎて上に上がりますと、消防水利の地下タンクがあるT字路に出ます。ここは元は海善寺というお寺のあったところだそうで、色々な石造物が見られます。
お寺の名前を忘れてしまったので、蕎麦の畑で里芋を掘っていたご主人に尋ねてみましたが、彼も忘れてしまったそうです。とほほ…。
でも不思議なのは、ここがお寺の後だと伝えられているのに、墓石が見あたらないんです。お寺の跡地に付き物の無縫塔
もないんですよ。海善寺は下河津に移転したというので、きっと、お寺と一緒に移されたのでしょうね。
ここに並んでいる石造物は、画像にはありませんが一番大きいのが徳本名号塔で、ついで大きい光背型の石仏が庚申塔。あとは大日如来や馬頭観音の石塔です。きっと路傍にあったのをここに集めたんでしょうね。
道標
さて、ここを真っ直ぐ行くと稲梓の落合につながり、右に曲がると河津を経て稲取に通じます。それを示す道標が、こちらのお宅の庭に立っています。

道標のある辻です
こちらのお宅の庭に、石造りの道標が残っています。右を行けば稲取で、左に行けば落合に出るような事を書いてあります。これから先、石垣の材料などにされず、いつまでも残ることを祈ります。
はっつけ坂
なぜここにこんな名前が付いたかと言いますと、慶長の時代、縄地金山の過酷な労働に耐えかねて脱走した坑夫がつかまって連れ戻され、この坂で見せしめのためにこの坂で貼り付けの刑に処せられたことに由来するそうです。ちょっと恐い話ですね。
かつて縄地の分校に2年生まで通った小学生は、3年生になるとこの坂を上って河津浜の小学校に通ったそうです。

誰が呼んだかはっつけ坂 今はおばあちゃんが畑仕事の行き帰りに歩くのみです
東浦路はこの先の峠を越えて一旦国道を横切り、旧道に合流してから再び135号線につながるそうです。そこから先はまた次の探索をする機会を待ちたいと思います。どうかまたご覧くださいませ。
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