葉

大名坑に入る
 入坑 2006年12月4日   
 
近くて遠い大名坑
 私にとって、近くて遠かった大名坑。これまで、縄地の鉱山跡は何度か訪れていたものの、それらはすべて昭和期に稼働した施設跡である。書物によると、江戸期に開かれたそれは山の深いところにあり、至る所に縦坑が潜んでいるので、危険なために立ち入ることは避けた方がよい、と書かれているものもある。それでこれまで訪ねていくことができなかった。農協のすぐ裏の竹藪にあるという大名坑ですら、そうした思いから二の足を踏んでいた。

 しかし、それこそ私を隔てていたのは、ほんのちょっとのきっかけと求める気持ちだったのだ。

チャンスは突然に
 しかしチャンスは突然訪れた。その道ではエキスパートであるさる御仁が案内の労を計らってくれたのだ。かくてここに、遠かった江戸期の坑道を目の当たりにするという幸運をいただくことができた。

 「大名坑」は、その名の通り、江戸期に大名が視察に来たことから名付けられたと言われている。しかもその大名は馬に乗ったまま坑道に入った、という規模の大きな坑道だ。資料によると、大名坑の長さは、5km。かなりの規模である。しかし下田北高の郷土研究部による調査では、すでに入り口も内部も土砂によって埋まり、当時の様子はほとんどうかがわれないと言う。

 アプローチはこうだ。大名坑があるのは、農協の建物の裏手、運上山の麓である。それは私も知っていた。しかしその辺りは一面竹藪に覆われ、どこに坑口があるかは皆目見当がつかない。


  農協の駐車場から坑口のある地点を見る

その辺りの様子は、ご覧の通りである。



しかも建物の裏手には、川が流れている。ここは落合側の橋を渡り、畑に下りて竹藪を目指す。私達が背を向けている側の民家の庭に、縄地中条のサイの神がある。



枯れ沢を渡り、目測でとらえてある辺りを目指して、竹藪へと踏み込む。



 薮はこの通りであるが、驚くべきことは、よく見ればちゃんと踏み跡がついていることである。かつては日常生活の中で行き来する人がいたことを示している。なぜ?

 と、じきに右手に竹藪の中でぽっかりと口を開けている穴が見えた。意外と小さい。しかしこれこそが人馬が入ることを許した大名坑の今の姿そのものである。



いざ入坑
 何と、入り口には錆びたレールが3本、立てかけられている。江戸時代にレールがあった? いえ、これはどうも昭和になって再採掘されたときの設備だそうだ。



 さて、入り口が思いの外小さいのは土砂の流入によるものであり、近づいてみれば、本来はもっと坑口は高く広いことが分かる。

 入り口から見た内部の様子は、この通り。入り口が高くなっているので、やや見下ろす形になる。落盤があり、荒れた様相を呈している。
 広さは、幅も高さも3mというところだろうか。岩肌には細かい襞のような鑿の跡が残っている。



 入って右側の岩肌の天井近くには、四角い窪みが見られる。嵌め込み式の支保工が組まれていたのだろうか。

 そしてここにも、孤独なコウモリ男爵の姿があった。


 少し進むと、左側に折り返すような方向で坑道が分岐している。こちらは昭和期に開かれた坑道だそうだ。岩肌には鑿の跡はなく、発破によって開かれたらしい。排水溝に水が流れている。やがて農協の裏手の川に注いでいるそうだ。



 落盤による土砂の堆積した辺りを過ぎると、このように整った坑道がかつてここがそうであったであろう姿を見せる。左右に掘られた排水溝はいつの時代に作られたかは不明だが、坑床には枕木が剥がされたような跡があるので、昭和期に利用された際に再整備されたのかもしれない。



 坑道は広く、岩盤も固そうなので、恐怖心などはない。やがてなぜか川の流れるような水音が聞こえてきた。これは頭上に川底があり、その川から聞こえてくるのだろうか、と、そんな錯覚を覚えさせる音だった。

 その水音の出所は分かった。坑道は間もなく落盤によって行き止まりとなり、そこに残った僅かな隙間から水が湧き出ているのだ。



 コンクリート製の貯水タンクに挿入された塩ビパイプは、今でも水を導くという役目を果たしているのだろうか。

 結局、大名坑は奥行き30mほどで行き止まりとなり、そこから先へ進もうとする私達の歩みを許していない。行くのも戻るのもたやすく、閉ざされた空間でありながら開放感さえ覚えるのは、やはりその坑道の広さがなせる技であろう。


                                             
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