葉

長岡町の稚児ヶ淵を歩く
   探訪2004年8月29日


気になる道へ
 
義母が長岡順天堂病院で白内障の手術をしたため、土曜日の午後にお見舞いに行くことにしました。
 手術は無事終了し、義母も元気のようです。娘である妻とつもる話もあるだろうし、洗濯もするというので、私は外へ出ることにしました。

 実はここの病院へ来る時、狩野川を渡った辺りで気になるいくつか石造物を見ていたからです。狩野川では水難者も数多く出たでしょうから、その供養塔や水難地蔵などもあることでしょう。では、ちょっと病院から抜け出して、歩いてみることにしましょう。ただし、記述は、分かりやすいように下田側から順天堂病院に向かって歩くように書いてあります。



大門橋のたもとの石造物群
 伊豆中央道と並んで狩野川を渡る国道414号線の大門橋を西に渡りますと、橋のたもとに石造物が集められています。

     大仁から橋を渡って来て振り返ったところです         馬頭観音が並んでいます

 ブロックの祭壇にいくつも立てられている方は、どうやら無縁さんのようです。「明和」などの年号や「信女」などの戒名が見られます。
 もう一つ、橋に近い方に横一列に並べられている方は、馬頭観音の石造や石柱のようです。いずれも摩滅や破損が進んでおり、1つの光背にかろうじて「文化」の銘が認められます。この辺りは穀倉地帯ですから、牛馬を農耕に供した歴史は長かったでしょう。それらが道路工事を行った際にここに集められたのでしょう。

 いずれも水や花が供えてありましたので、きっとどなたかがそっとお世話をしているのだと思います。これからも車の往来を見守りながら、これらの無縁さんと馬頭観音碑は、ここに静かに立ち続けるのでしょう。

   
稚児ヶ淵の地蔵様
 大門橋から順天堂病院の方に向かって歩きますと、縦貫道の橋の下に、ぽつんと立っているお地蔵様があります。

       ぽつんと立つ稚児ヶ淵のお地蔵様       高さは台座を含めて80cmほど

 このお地蔵様には言い伝えがあり、横に案内板が立っています。
 それによりますと、この北に東昌寺というお寺があり、そこにいたお稚児さん(寺院に使い召された少年)がここの淵に落ちて命を落としたことを供養して立てられた、という由来があるそうです。ですから、この辺りは「稚児ヶ淵」と呼ばれているそうです。辺りは縦貫道の工事のためにすっかり昔とは変わってしまったようですが、この場所に今も残されて祀られているのは、なんだか嬉しいような気がします。


天野の堰跡
 この辺りの狩野川は川幅も深さもかなりあるようです。道の傍らにポンプ室のようなコンクリート製の小屋があり、そこに記念史のプレートが嵌めこんでありました。
 それによりますと、昔から暴れ川だった狩野川の治水のために、300年前に大変苦労をして天野堰(あまのぜき)という治水工事を敢行したのだそうですが、狩野川台風で伊豆が大被害を被った後、狩野川放水路を作るのに合わせてその堰を壊して拡幅工事をしたのだそうです。歴史ある天野堰を壊したことを後世に伝えるために、そのプレートを立てたと書いてありました。

何でも堰を作る時に旅の六部(ろくぶ=六十六部とも言う。銭を乞いながら諸国を巡る巡礼)を人柱にしたという言い伝えがあるそうで、そうした歴史が消えていくのを惜しんだのでしょう。狩野川ならではの逸話と思いました。

    ポンプ小屋(?)と天野堰の歴史を説明するプレート          水鳥の遊ぶ稚児ヶ淵


山の神
 お地蔵様から順天堂病院の方に歩きますと、「川由」という、おとり鮎を商っている店があります。そこの敷地内に祭壇を作って石祠を祀ってあるのが見えます。店番をしているお姉さんに「あの神様は何ですか?」と尋ねると、「山の神様だよ。」と教えてくれました。
 さっそく見に行ってみますと、山の岩肌を削って2つの祠が置いてあります。古そうな方はかなり大きく、珍しいです。小さい方にはしめ縄が飾ってありました。

   屋敷跡とのことです。山の神と祠が分かりますか?       山の神様とのことです

子育て地蔵と馬頭観音
 その山の神の隣り、堤の上にお地蔵様を祀ってあります。比較的新しめの意匠のお地蔵様のように思えます。よく見ますと、まだ新しい赤い布に「高田…」という女性名が2人分書いてあります。お世話をしている人の名でしょうか。後でさっきのお姉さんに聞いてみることにしましょう。

 そのすぐ右に、さらにいくつかのお地蔵様が立っています。こちらははっきり馬の顔を戴いているのが認められるので、馬頭観音像と分かります。残念ながら銘が読めないので建立年代は分からないのですが、江戸後期のものではないかと思います(ただの勘です)。

 一通り拝見した後、さっきのお姉さんに伺ってみました。そのお話によりますと、かつてそのお姉さんの家がここにあったのですが、護岸工事のために建設省に明け渡したそうです。家はすぐ近くに移転したそうなのですが、神様はそのまま残したので、お店を建てておとり鮎を商いながらお世話もしていると言うことでした。

山の神様は天野区で祀っており、子育て地蔵と馬頭観音をお世話しているそうです。子育て地蔵はずっと昔からあり、赤ちゃんが生まれると、名前を書いた布を祀るとのことでした。高田…さんのお名前は、お姉さん(と言っても昔のお姉さんですから)のお孫さんの名前だそうです。なるほどよく分かりました。

        子育て地蔵様と…           馬頭観音様です


天野八幡神社と道祖神
 「天野陸關」と書かれたプレートがはめ込まれた堤を過ぎますと、山側に天野八幡神社があります。社は、急な84段の石段を登ったところにあり、秋葉神社も祀ってあると案内にありました。

      天野八幡神社の鳥居と石段      84段登るとそこに社殿が鎮座しています

 その境内に、ひっそりと2つの道祖神があります。中伊豆に見られる典型的な丸堀単座像の道祖神です。2つあるのは、どこからか集められたのでしょうか。あいにく誰も歩いていないので尋ねることはできなかったのですが、いつか由来を明らかにしてみたいものと思いました。

       こんなところに道祖神様が…     秋葉神社と琴平神社が境内にあると記してあります

天野遠景の墓
 先ほどから何度も「天野」という地名が見られます。すると近くにこの町指定名跡「天野遠景の墓」がありました。
 天野氏とは鎌倉時代の名将で、源頼朝に仕え、数々の手柄を残したそうです。晩年は出家して僧となり、この地に葬られたそうです。

 石段を登り詰めた小高い丘の上に、その墓所はありました。遠景とその子息と弟の物と伝えられる墓石は、小さくも美しい報篋印塔と五輪塔なのでありました。

    墓所の脇には休憩用のベンチがありました。        形の良い塔です。

民家の馬頭観音碑
 そろそろ病院に帰ろうかとしたところ、四辻の脇にある民家の裏庭に石柱があるのが目に留まりました。
 近寄って見てみますと、馬頭観音の銘があります。裏の年号には、何と「昭和三十五年」と彫ってあります。私が生まれたのが昭和33年ですから、これは大変に新しいです。これまで私は、馬頭観音も大日如来石柱も、太平洋戦争までのものしか見たことがありません。農業を営んでいた稲取のじいちゃんちでは、昭和40年頃に最後の牛を売ってしまったので、それに似たいきさつで牛馬をなくした主人が立てたのかもしれません。

      高さ40cmぐらいの石柱型馬頭観音


駐車場前の馬頭観音様
 さあ、いくつかの史跡を巡りながら、やっと順天堂病院に戻ってきました。
 ふと見ると、立体駐車場の向かい側ののり面に、小さなお地蔵様がはめ込まれています。近寄ってみますと、形からしてどうやら馬頭観音石像のようでした。ここは長岡町のメインストリートです。いつからここに立っているのでしょうか。昔は人馬をを見送っていたでしょうに、今は騒々しい車の出す排気ガスを浴びて、もの悲しさを感じます。

         大きな看板の下に…      ちょこんと納められています 高さ40cmほど

 今回は下田街道から外れたところをいきなり探索をしましたが、狭い範囲に史跡や石造物が固まっていたので次々にそれらを見つけることができ、楽しく歩くことができました。やはりここ長岡町やとなりの韮山町は源氏ゆかりの土地です。きっとほかにもいろいろな史跡が私たちを静かに待っていることでしょう。

 さて順天堂に入り洗濯機の所に戻ってみますと、誰もいません。もうすぐ来るかな? と思って今日の記録をノートにまとめていますと、義母がやってきました。「あれ? K子はとっくに車に戻ったよ。」と言う声を聞いて、あわてて下に降りますと、口をとがらせてぷんぷん怒ったかみさんがそこにいました。ひたすら謝りながら、大仁のアピタに寄って帰ることで許してもらいましたとさ。
                                             

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