葉

加増野から小杉原へ

〜西伊豆と下田を結んだ交易の道〜
そして婆娑羅での不思議体験



 地図で見ますと、婆娑羅トンネルを松崎側に下った大きな右カーブの所から、加増野の山を経て南伊豆方面につながる道が記されています。地理の条件からして、松崎と南伊豆をつないでいた陸路に違いありません。
 2000年12月10日。この道をたどってみることにしました。
 事情があって加増野側からは入れませんでしたので、車で県道の婆娑羅トンネルを越え、小杉原側から入ることにしました。
 トンネルを出てしばらく下ると、左カーブの次に右カーブがあります。その左に車の入れる空き地があり、その奥から山道が始まっています。

婆娑羅県道から
  赤い車のあるところを左に入ります
 
 さあ、では山道に入りましょう。あたりは鬱蒼とした檜林で、道はよく整備されているようです。道はうねりながら、緩やかに上っています。地図によりますと、沢筋にそって南の方角にほぼ真っ直ぐ進み、峠に出てから西に少し進んで、岩科方面と加増野方面とに道が分かれるようです。このまま沢に沿っていけばよいようなので、今回は間違いなく踏破できるだろうと思っていました。(が、これは大きな間違いでした。とほほ…)

緩やかな登り道
    道ははっきりしています

 道は沢に沿っていますので、時々それを木製の橋で渡ります。いずれも作ったばかりの新しい橋で、山仕事の人や猟師がよく来るのではないかと思いました。これならハイキングコースとして整備したら、よい観光資源になるのではないでしょうか。

新しい橋
 このような木の橋がいくつも架けられています

 さて、沢に沿って直登するのみと思っていた道も、所々に分かれ道があります。地図を見ると左側の斜面に取りつくようなので、左に進んでみました。が、いずれも道は途中で消えてしまい、進むことができません。そんなことを3度繰り返してしまいました。

炭焼き小屋の跡
      あ、石垣があります

 道の傍らに、このように石垣を組んだところがあります。昔の炭焼き小屋の跡だと思うのですが、どうでしょうか。

 さあ、いよいよ上りがきつくなり、橋も細くなってきました。沢の水もちょろちょろ流れるのみとなりました。私は、初冬だというのに汗びっしょりです。でも、日頃の運動不足の解消になるのは嬉しいことです。

山道の様子
   道の傾斜が大きくなってきました

 だんだん稜線が近づいてきたような気がします。もう一息かもしれません。時々、上空を飛ぶ飛行機の音がします。(もしや雷か?)と思うほどの音量です。伊豆のこの辺りは旅客機の航路となっていますが、普段はあまり気に留めません。静かな山だからこその表れでしょう。

 さて、古い石垣が所々で見られるのと同じように、こんな洞穴がぽっかりと黒い口を開けているのに出くわします。人が2〜3人ようやく入れるくらいの幅です。一つは奥行きが浅い穴でしたが、ほかのは左に曲がって掘ってあるようなので、奥が深いのかどうかは分かりませんでした。なにしろ入る勇気はありませんでしたので、深いような気もしますが、浅いような感じもします。

 実は、ここに来る前、「婆娑羅山には姥捨て伝説があり、山に入ると、年寄りをおいてきた穴が開いているそうです。」と、小杉原の旧家を継ぐ同僚から聞いてきたのです。これがその穴でしょうか。ま、まさか本当にあるとは…。穴は、途中で3つ見ました。もしこの穴がお年寄りを入れておいた穴なら、さぞ淋しかっただろうと思います。が、すぐ前には沢が流れているので、飲み水は確保できます。あとはわずかばかりの食料を置いて…、お年寄りは悲しく天に召されたのかもしれません。そんなことを考えると、背筋が寒くなってきました。

山の穴2 山にある穴3
       穴の奥は暗くて見えません                この穴も、奥はどのくらいあるのでしょうか

 さて、だんだん空が近づいてきたような感じになってきました。尾根が近いのでしょうか。しかし、希望に反してだんだん道筋が怪しくなってきました。地図によりますと、この辺りを左の斜面に取りついて上るようになるはずなのですが、左に道らしい踏み跡はありません。しかたなくもっとも沢筋らしく見えるところを上っていきました。
 
 ところどころ、木の幹に緑や赤のビニルひもが巻いてあります。きっと道筋の目印でしょう。過去にどこかの学校で遠足に使ったのかもしれません。でも、肝心の分かれ道の所にはそれが残っていないので、あまり活用はできませんでした。

 さて、沢筋に沿って登っていったのですが、とうとう道が消えてしまいました。これには困りました。あと少しで尾根に出そうなところまで来ているのに、これでは目的が果たせません。少なくとも西伊豆と南伊豆を結ぶ交易路だったなら、もっと踏み跡が残っていてもよさそうなものです。道を間違えたのでしょうか?

道がなくなりました
    とうとう道が消えてしまいました

 でも、ここまで来て帰るわけにはいきません。幸い、沢に沿って登っている道ですので、帰りも同じようにして沢筋をたどっていけば、下界に下りられるでしょう。意を決して、藪こぎをして進むことにしました。灌木の枝をくぐったり左右にかき分けたりしながら、沢筋を見失わないように登ります。土が軟らかいので滑りやすく、靴はどろどろ、時々足に刺さる植物のとげが痛いです。

 さて、そうしてしばらく行くと、辺りは再び檜の林が広がりました。正面も徐々に明るくなってきました。踏み跡はありませんので、明るい前方に向かって進みます。

 数分後、ようやく尾根に出ました。尾根筋は意外と狭く、道らしきものもあります。辺りには間伐材が幾本も倒れています。幾度も道を間違えたので、登り初めてここまで55分間もかかっていました。

婆娑羅の尾根
 尾根に出てトンネル方向を見たところの画像です

 さあ、あとは加増野側に下りる道を探すだけです。
 地図によると、ここから尾根に沿って南に進み、小高い頂上を過ぎて左に下りる道があるようです。すぐ目の前の斜面を見下ろすと、伐採された木が重なり合って倒れており、とても下ることはできません。では、地図の通り地形を読んで進んでみましょう。しかし、辺りは倒木や間伐材などで歩きにくく、今ひとつ道がはっきりしません。ようやくそれらしき道筋を見つけ、南に進みますと、やがて道は分かれ道となりました。

 さて左に下っている道が、加増野に下りる道でしょうか。
 しかし、少し進んでみたところ、どうも道ははっきりしません。しばし考えた末、結局、行くのは諦めました。地図の道通りに進んでいればよいのですが、もし一つでも違った沢筋を下りてしまうと、迷ってしまうのは明らかです。戻るのも勇気です。今度は日を改めて加増野側から登ることにしましょう。
 が、ここで非常に恐い思いをしました。もと来た道を戻ったつもりだったのですが、小高い頂上付近で迷ってしまいました。何しろ辺りは眺望が開けません。どちらに進んでも、今来た道のような印象を持ってしまいます。かろうじて木々の間から漏れてくる日の光から方角を察知して最初にたどり着いた尾根を探すことができました。この時はさすがに方位磁針を持ってくるべきだった、と反省しました。単独行はこんな危険があるので、こわいものです。

 帰りは、ひたすら下るのみでしたので、楽と言えば楽でした。が、何度も足を滑らせて服を汚してしまいました。それに、例の姥捨て山伝説を思い出していたので、何だか妙に背筋がぞくぞくし、体が冷たくなってきました。(でも、よく考えれば、登るときかいた汗が冷えて体温を奪ったのでした。)
 下り始めて20分間で、車を置いたところに着きました。県道を行く車の音が聞こえてきた時には、正直ほっとしました。

 さて今回の探索では、いくつか反省点がありました。
 地図に道が記載されてはいても、道は思ったより荒れています。ある程度、道は整備されていますが、峠を通り抜ける人がいるとは想定していないようで、山仕事をする人のためだけに整備している感じです。ふだんはせいぜい森林組合の人やハンターが入山するくらいのことしかないのでしょう。事前の調査や情報収集をしておかないと、事故にもつながりかねません。加増野か小杉原に古くから住んでいる人や、ハンターなどから話を聞いていけば、探索もしやすいでしょう。(後に分かったことですが、この道は昔の交易路ではなく、単なる山仕事の道であるようです。正しい婆娑羅越えの峠道は、今のトンネルの近くにあります。詳しくはそちらのページをご覧ください。)

 ところで、今回はこの近くでもう一つ訪ねてみたいところがありました。
 先に話に出た、小杉原の旧家を継ぐ同僚が、ご家族から姥捨て山伝説について具体的に聞いてくれてあったのです。その話によりますと、姥捨て山伝説でお年寄りを連れて行った道は、もっとトンネル寄りの方にあったらしいということなのです。婆娑羅トンネルの小杉原側の入り口手前から南側の沢筋に入り、斜面を登ると、やがてかなり広く平らな土地があって、石積みの礎石のような築造物があるそうです。そして傍らには、古く朽ちた石塔がいくつか立っている、と言うのです。

 「もしかしたら、そこがお年寄りを置いて帰った場所かもしれません。」
 「えっ、本当ですか。そういえば、婆娑羅山は昔、霊験あらたかな修行寺があったそうです から、その礎石がその寺の跡かもしれません。」
 「でも、その話は今から20年前に見たことらしいですから、今はどうなっているか分かりませんよ。」
 「いえ、いつか確かめてみたいと思います。」

 そんな話をしてあったものですから、この機会に行ってみたかったのです。

 さて、車を旧婆娑羅トンネルに至る道の側に置き、県道を横切って沢筋に入りました。なるほど、ちゃんと道らしきものがついています。明らかに昔、人が踏み入った跡のようです。何だかドキドキしてきました。この上に、本当に姥捨ての場所があったのでしょうか…。


 ここで道を渡って植木の間を分け入ります

 さて、果たして道はちゃんと残っていました。枯れ沢に沿って道は延びています。


   細い踏み跡を辿っていきます

 しばらく行くと、道はかなりの登り坂になります。途中、大変大きな岩が山肌からせり出すようにしてこちらを伺っています。不気味です。

 さて、道は徐々に細くなります。途中で分かれ道がありましたので、真っ直ぐ進みますと、トンネルの上辺りか…、と思われる尾根筋に出ました。が、そこは狭い尾根筋で、道らしきものはありませんし、まして話に聞いていた広い部分もありません。だんだん風が強くなり、木々の枝が騒がしく音を立てます。淋しいこと、この上ありません。
 
 そこで踵を返して元に戻り、分かれ道を右に行きました。すると、そこにあったものは…

まもなく尾根
 おお、今度は広そうな尾根に出ました

 まもなく再び空が明るくなり、尾根(というより峠でしょうか)に出ました。ここまで県道から10分も登れば到達するでしょう。
(聞いた話の礎石などがあるとしたら、ここのはず…)思って辺りを見回しますと…、ありました。かなり大きな石積みの築造物が…。先に、加増野を目指した峠道で見た石垣ににていますが、あれよりも一回りも二回りも大きいのです。それに、さらに探しますと、その向かいの山の斜面に、墓石のような石柱も二つ立っています。もうここが話に聞いていた、かの場所に違いないようです。まさに今、姥捨て山伝説に触れようとしているのです。

婆娑羅上の石造物
  これがその墓石のような石柱の画像です

 私は、もうこれはお墓に違いない、と思って恐る恐る近づき、彫られているであろう年代などを見てみることにしました。
 はやる胸を押さえながら近づいてみますと、おや、表面には何も彫られていません。あるいは削られたのかもしれませんが、妙です。そのすぐ奥には、やはり石を積んで作った、小さな室がありました。日本の石柱は、その小さな石室の門のような形で立てられているので、お墓でないとしたら、ここに山神様でも祀られていたのかもしれません。

不思議な石垣の様子
 これが初めに見つけた石組み かなり広いです

 先に見てきた山道沿いにぽっかり口を開けた洞穴といい、この不思議な石柱といい、どうもこの辺りには不可思議な要素を持つ遺構が多いです。まるでテレビの『特命リサーチ2000X』のリポートをみているようです。(私は、あの番組が大好きなのです。)

 今回の探索は、これで終わることにしました。次回訪れるときまでにはもっと情報を集め、多方面から遺構を検討できるようにしたい思います。また、次回は、加増野側から登る道を訪ねてみます。聞いたところによりますと、加増野から峠道を登ると、山のてっぺん(地元の人は、「旧峠」と呼ぶそうです)に、馬をつないでおいた穴のある岩『駒留めの岩』があるそうです。なかなか興味のわく話です。今回と同じように道は荒れているかもしれませんが、ぜひ行ってみたいと思います。
 また、加増野からは、梓の里からゴルフ場の脇を通って南伊豆町青野に出る道もあるそうです。その昔、稲梓の養蚕業の製品を運んだ道だそうです。ゴルフ場の入り口付近には『青野街道』と刻んだ道標もあるとか…。なかなか面白そうな話です。

 次回の古道探索は冬休みになると思いますが、このほかに、小松野道(横川〜上大沢〜一条)、横川〜下大沢、茅原野〜落合、小鍋峠再訪、上藤原峠(相玉〜蓮台寺)の探訪を予定しています。そのつど記録と画像をアップしますので、またこのホームページに来てください。
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