葉

縄地のバンタ石を探せ〜6
探索 2009年2月11日   
 
縄地小湊へ
 ご主人にお礼を述べて別れた後、再び小湊の積み出し桟橋を見に行ってみました。


           岩盤をくりぬいた素堀の小湊隧道

すると、砕石の運搬船が接岸しており、あの黄色い大型ダンプカーが今まさに石を積み込もうとしているところを目の当たりにしました。


           海面までは目がくらむ高さがあります 

小湊の岸壁に、岩が船倉に流し込まれる時の「ザアァァァーッ!」という音が響き渡りました。

あんなどうでもいい大量の石よりも、たった一つしかないバンタ石の方がよほど大事なのに…、と思うと、胸がキュンと締め付けられるのでした。


          ダンプカーの荷台から大量の石がこぼされています


         「第三栄宝丸」にとってはこの砕石が「宝」なんでしょうか

お不動さんへ行く
 縄地探索の最後に、ご主人に聞いたお不動さんの祠を見に行ってみました。果たして、その枝でご飯を炊くと赤くなるという松の木の末裔は、残っているのでしょうか。

小縄地から縄地隧道をくぐって中条に戻り、ここがはっつけ坂だろうという見当違いをしていた坂を上ります。


        ここははっつけ坂ではなかった、というのが結末です

水準点のある峠から、東に見える細い山道に入ります。お不動さんはいったいどんなところにあるのでしょう。


                お不動さまへの登り口

海の方へと延びる道を歩いていきます。少し上り坂になっています。


             何かちょっと心細くなるような道です

やがて小高い丘のようになったところに、木で作った祠と常夜灯などが見えてきました。

あそこかな? と思って行ってみますと、丘の上にはいくつかの常夜灯や石塔に守られるようにして祠がありました。祠の中には、石で彫られた不動明王が祀ってあります。

 不動明王の像は、多くの場合、滝のそばに置いてその力強い自然のエネルギーの象徴として祀ることが多いように思えますが、ここには滝も川もなく、今は鬱蒼と茂る木々の中で埋もれるようにしてひっそりと在るだけになっています。石塔には「文化」などの年号が彫ってありますので、江戸の中後期から人々の信仰を集めたと思われます。当時は周囲の木々がなく、海の方に眺望が開けていたでしょうから、あるいは眼前に拡がる大海原と併せてここでお不動さんを崇めたのかもしれません。それにしても祠が真東でなく、やや南に傾いて作られているのが気になります。本来はここからどのような海の景色が見えるのでしょうか。

 そういえば、西伊豆の安良里(あらり)にある授宝院大聖寺(だいしょうじ・伊豆八十八ヵ所の八十五番札所・ 臨済宗 )は不動明王を本尊としていますが、地元ではその不動明王を「波切り不動尊」と呼んで信仰しています。その昔、文覚上人が船で駿河湾を航行している時に嵐に遭ってしまい、遭難も覚悟したのですが、舳先に掲げた不動明王像に対し一心に祈りを捧げたところ、嵐を乗り越えて安良里の湊に辿り着くことができた、という故事があるからだそうです。

そう考えると、縄地の不動明王も、広大で深い海の持つエネルギーをいただいてこの地を守ろうとしているのかもしれません。


               石造物と、お不動様の収められた祠

終わりに
 これで今回の縄地探索に一区切りつけることにします。
 
 古くから伝わる「はっつけ坂」を探すことから始めたこの作業は、土地の方々の支援を得て、妻坂や罪ヶ坂という別の坂名に気づき、さらにバンタ石の存在とその周辺に伝わる独特の言い伝えを掘り起こすことにつながりました。書物ではほとんど読むことのできないそうした言い伝えを、自分の耳で聞き、実際に残る歴史的資産や史跡を目の当たりにすることができたのは、大きな驚きでもありました。
 しかし、そういう話を後世に伝えることは徐々に難しくなっていくだろう、と土地の人は仰います。また、ひっくり返っていたバンタ石のことから分かるように、無神経な開発の手などがこの歴史ある里に入り込んでくることはまだまだ考えられます。
 が、私は今回、心やさしい人々によって数々の史跡や言い伝えを教えてくださったことを、心から感謝します。そうしてこの土地の歴史は私の深く胸に刻まれ、私はこの土地をいとおしく思うようになりました。

縄地という金山で栄えた土地にまつわる逸話が、これからも土地の人々によって守られ、静かに語り伝えられていくことを願ってやみません。

後日・・・
 2月中旬、私の歴史学習の師匠を縄地にご案内しました。この時も、金鉱石を粉にする時に用いた“擦り石”を地元の方に見せていただいたのですが…、


        再び擦り石を見せていただきに ありがたいことです

擦り石を見ていただいた後で次の場所に向かう間、師匠が何か考え込んでしまわれました。

私が「どうなさいました?」と尋ねますと、

「おかしい…。」

と仰います。

「何がですか?」

「ゆるいんだよ。」

「えっ?」

「ゆるいと思わないか? ねこ村は『鉱山のきつい仕事には罪人などの荒くれ者を呼んできたので、時に彼らは反乱を起こしたり脱走したりした。そのため、そういう者を処刑したはっつけ坂が今でも残っている』と言ったけど、そうならどうして一軒に一個のちょこ石を用意して、貴重な金鉱石を持ち帰らせたんだ? 持ち帰らせれば、当然、懐に入れる者もいたはずだよ。」

「あっ…!」

師匠は、私の単純な思いこみを、見事に否定してくれました。

「はっつけ坂で磔にされたりバンタ石の上で仕置きを受けたりしたのは、外から侵入して金を盗もうとした輩だったのではないだろうか?」

うーん、歴史の事象を鋭く探る師匠の切り込み方には、いつも驚いてしまいます。私も早くそういう見方ができるようになりたい、と思いつつ、学習の基礎というか素養のできていないことを悲しく思うのでした。

縄地の史実について裏付けを取るには古文書を読めばよいと思うのですが、かつてこの地にあった文書は、明治大学が来て調べた時に持っていかれたそうです。後に土地の人が返してもらいに行ったそうですが、こちらは「貸した」、あちらは「買った」と言い、話がまとまらなかったとのことです。今でも縄地の古文書は明治大学(の資料館?)にあるそうです。
 このような話は、隣の白浜地区でも聞いたことがあります。郷土史を研究するためには、どういう形で古文書を保存していけばよいのでしょうか。考えていかなればならない問題だと思います。


           縄地の里を子安隧道の方から眺めたところ

                                             
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