葉

縄地のバンタ石を探せ〜5
探索 2009年2月11日   
 
最悪の愚行
 無惨にもひっくり返っていたバンタ石を目の当たりにしたご主人の落胆ぶりは、それこそ手に取るように分かり、私の胸も沈んでしまいました。長い伊豆の歴史を支えてきた東浦路と、その傍らにあって語り継がれてきたバンタ石。一級品の歴史的遺産が、配慮のかけらも持たない開発の手によって破壊され、葬られてしまったのです。これを愚行と呼ばずして何と言いましょうか!?

「ここをジグザグに上っていくと、旧道に出るよ。」

そう言ってご主人が見上げた先には、旧国道と、現在稼働中の採石場、そしてそこから湊へと続く運搬道が横たわっているのでした。


      バンタ石の辺りから上を見上げたところ この上に旧道が通っています

はっつけ坂を上り切って旧国道に出ると、このように採石場が山を削っています。



そして、事務所脇からコンクリート敷きの運搬道が小縄地の積み出し桟橋まで続いています。この右カーブの左下に、東浦路とはっつけ坂があります。ずっと遠く向こうに見える窪んだところは、白浜と縄地の境の峠です。



 
さて、すっかり肩を落としているご主人と、東浦路を下りました。道の傍らに昔、ご主人が植えた、というミカンの木には、無惨にも鉈が入っていました。



「ハンターがやったんだろうよ。道しるべみたいなもんだ。」

見ればミカンの木と分かろうはずなのに、ハンターも遠慮のないものです。

「炭焼きをやっている頃、『その上の山の木は途中で切るのをやめて、上まで切るな。上の方の木は残しておけ。上まで切ると、死ぬ。』と言われていた。その山のてっぺんで縄地金山の罪人の首を切ったからだと言われている。
私も行ってみたが、何か石の柱でも立っていれば本当かなと思うけど、何もないので、何とも言えないな。」


はっつけ坂とバンタ石とは地続きになっている山ですので、関連はあると思います。

はっつけ坂を下り切ろうとするところで、またあのダンプカーが採石を積んで下ってきました。




「トンネルの脇を入っていく道を登ると、まもなく峠に出るよ。そこからさらに南に登ると、お不動さんがある。お不動さんの祠がある崖に昔は赤い松の木が生えていて、その枝を薪にして米を炊くと、赤い飯ができると伝わっていたんだ。」

「お不動さんの赤松は枝が垂れていて、それが山肌まで届くと(樹齢が)千年経ったことになるとみんな言っていたが、斜面に生えているから、いくら枝が伸びても地面に着かないわけさ。 」

「ここで下りて、お不動さんへ行ってみるかい? 車はトンネルの向こうから回しておくよ。」

ありがたいご配慮でしたが、あまりわがままは言えません。お不動様の位置は分かりましたので後で自分で行ってみますと申し上げ、そのまま軽トラに同乗させていただきました。

縄地に伝わる地名
 軽トラは国道のトンネルをくぐり、寺坂を上ります。

「寺坂は、もちろん歩いて上る細い坂道だった。そこに入り口が見えるだろ(見えました)。バス停のところ(沢の右岸)から上がって、途中で川を渡り、今の道とつながっていた。寺坂の上は今、資材置き場になっているが、ここは92か93反ある田んぼだった(*1)。
「何だ100反ないじゃ」と誰かが言った後、足りない分としてお椀が置いてあったそうだ(笑)。 本当の寺坂は、この沢の左(右岸)を上って、ずっと上の方で今の道と合わさっている。今はすっかり竹が生い茂ってしまったけど、その辺りは今でも分かるだろうよ。」

国道脇で、入り口しか見えない寺坂ですが、って地福院の前で停まりました。

「ここは、大久保屋敷といって、金山の時代に大久保長安の屋敷があったところだ。長安は、自分の屋敷から鉱山のようすをすべて眺められるような土地を選んで屋敷を建てたんだ。すぐそこにあるのが「お花畑」という土地だ。屋敷の前にお花畑があり、その向こうにずっと鉱山を見渡すことができるようにした、ということだな。」


      六地蔵様の左に地福院 右奥に大久保石見守長安の屋敷跡があります

ご主人は地福院の前から南に広がる景色を眺め、

「ほら、あの平らな部分(鳥除けの銀紙が張ってある畑)の上に大名坑がある。その右の木がこんもりした辺りに丸い船の浮かんでいた坑道がある。 左の平らに見える部分がすもう段。それがお花畑。昔は今みたいに木が茂っていなかったから、鉱山全部が見渡せたということだな。」

「この後ろ(寺のとなり)にあるのが、大久保長安の屋敷跡。ここからは(慶長時代の)鉱山が全部見渡すことができた。そこがお花畑。長安は、お花畑と鉱山が見えるところに屋敷を持っていたということだな。 地福院にはよそから来た人の墓がたくさんある(*3)。 」

「お寺の参道入り口に立っている縄地金山の説明版は、(昭和の時代の)縄地鉱山に勤めていた人が、人に聞きながら書いたんだよ。その人は働いている時、坑道内には竜頭(*1)が直径2mほどの太さで残してあったが、そこには品位のよい鉱石が残っているからと言って、太さが1mになるくらい削って鉱石をとったのさ。するとドサーっと天井が崩れてしまって、みんな驚いたそうだよ。女衆を5、6人連れて行った掘ったらしいけど、たまたま離れていたところにいたからよかったものの、その場にいた人たちは驚いたために腰が抜けて逃げ出せなかったそうだ。昔の人たちはちゃんと強度を計算して掘っていたということだな。」

ここで、私が経験したことについて尋ねました。農協の裏にある大名坑に入ったことです。

「大名坑はもっと上にあるよ。農協裏の坑口は大名坑ではなく、(運上山の各坑から)鉱石を運び出すための坑道だ。大名坑とはつながっているだろう。」

「そのもっと上には、丸木舟が浮いている坑道があった。40年前のことだ。今は、あの大きな舟をどう運び出したのか、舟は見られなくなった。水は溜まっている。」

「“相撲段”は、南の方の山の中にある(大久保の方=鉱山事務所から少し上がって海の方へ水平に続いている道)。山の中に少し広場のようになっているところがある。そこが相撲段だ。江戸時代の坑夫たちが休み時間に相撲をとって遊んだところだ。」

「 (慶長期の採掘のしかたは)石の上で薪を焚いて、その後、(冷えることによって剥がれるようにし)鉱石を採った。その燃した跡が(表面だけでなく)穴になって山に残っている。鉱山事務所から大久保の方へ水平な道を歩いていくと、その跡があるよ。(*5)」

「お花畑」には、今も花が植えてあり、往事の姿を思い浮かばせる景色となっています。





車は旧道を走り、縄地峠の手前を左に下りました。

「ここが白浜から来る下田道で、峠の向こうとこちらにそれぞれ茶屋があった。峠には不動さんが残っている。」

「白浜の人たちは白浜側の茶屋で、縄地の人は縄地側の茶屋で休んだ。お茶を飲むだけなら、タダだった。菓子を食わないからな。」

「 ここは、谷津に移転した乗安寺があった場所だ。 この坂は、今は舗装されているが、昔はオニシバが生えた坂道だった。オニシバの先を、輪ができるように結んで、上の学年の兄いらを転ばせて面白がったものだった。」


やがて車はご主人の家に着きました。 北西に向かって下る坂道の途中にあるお宅からは、あの採石場なども見えます。

「ここから向こうの峠が見えるだろう? あの峠を越えると、すぐに谷津(やつ)だ。その手前が“寺屋敷”という土地だ。昔は寺があったんだろうな。」



「すっかりお世話になってしまって…。どうもありがとうございました。」

「なあに、こんな話でよかったかな。また来なさいよ。そうだ、ちょっと待ってな。白菜が畑にあるから。」

そう言って、ご主人は坂の反対側にある畑へ桑を持って行き、白菜やホウレン草をこいできました。そこへ向かいの家の奥さんがスーパーの袋を持ってきて、入れてくれました。



「なあに、こんなに食べきれないと思ったら、よそにくれればいいから。」

そういって、まだ土のついた新鮮な野菜をどっさり持たせてくれるのでした。 私はこんなに良くしていただき、いくらお礼を述べても気持ちは尽くせないと思いました。そしてこの歴史豊かな縄地の里が大好きになったのでした。

*1…一反は、約10アール(約300坪)
*2…「あにいら」=年上の人たち
*3…鉱山に従事するために移住してきて、縄地で亡くなった人達を指す
*4…りゅうず=坑内の強度を保つために意図的に残した岩石の柱=ピラー


  感謝の気持ちを込めて「縄地のバンタ石を探せ 最終章」へ

                                             
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