葉

縄地 麹坂のバンタ石を探せ〜3
探訪・聴き取り 2009年2月11日   
 
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 「この石は、バンタ石ではないようです。」

かつてはこの石の上で休んだものです、と教えて下さった縄地出身の方に写真を送って見ていただいたところ、返ってきたのがこのお返事でした。


        とうとうバンタ石を見つけた、と思っていたのですが…

東浦路のルートを確定し、バンタ石もほぼ間違いなく見つけることができた、と思っていた私は、がっかりしました。これでまた東浦路探しが振り出しに戻ったからです。

 しかし、ありがたいことにバンタ石を紹介してくださった方が、
「では父にねこ村のことを電話で話しておきますので、訪ねていってください。」
と取り次いでくださったのです。願ってもいなかった、千載一遇のチャンスです。ぜひぜひ訪ねていこうと、胸をときめかせるねこ村なのでした。

2月11日の河津桜
 この日は快晴でした。折しも河津桜が満開に近くなったと聞きましたので、まずはそちらによって桜を見て、それから縄地へ向かうことにしました。
 幸か不幸か、この日は勤労感謝の日で、土日の休みでなかったせいか、桜見物のお客さんはあまり多くありませんでした。
 新しく郷土史探索会(仮称)を結成したLOKANTA氏が川沿いの道でお店を開いておられるというので、そちらにも寄りたかったのです。


      2月11日は土日でなく祝日のせいか、朝の人出は少なかったです

河津桜は、ほぼ満開となっておりました。例年より開花が早いそうです(河津桜は、今が満開という時より、8分咲きぐらいの開花状況の時の方が鮮やかに見えるとのことです)。


         この濃い花弁の色が河津桜の特長だそうです


          LOKANTAさんちのテラス席から見た河津川

いざ、縄地へ
 河津桜祭りの会場がある河津浜から縄地へ行く前に、小縄地の鉱石積み出し桟橋を見るために寄りました。先ほど通った時、採石運搬船が入港していたからです。
 しかし、車をバス停そばに置き、怖い思いをして小湊隧道を小走りにくぐっていったのに、船は出た後でした。てっきり半日ぐらいは泊まっていると思っていたのですが、そんなに頻繁に出入りして採石を運び出しているのでしょうか。


        小湊第一隧道を徒歩でくぐるのはとても怖かったです


              あー、船がいなくなってる…

道標を読む
 とりあえず中条の道標のある辻まで行って、道標に彫ってある文字を読んでみることにしました。


            「此方 小た原」と読めるような…


              「此方 下田」と読めませんか

 どうやら文字は直方体をした石柱の3面にそれぞれ「此方 小た原 いなとり」と「此方 下田」「此方 松崎(←推定)」と彫ってあるようです。

 それからは、まだこの時ははっつけ坂だと信じていた目の前の坂を上り、峠の標高などのデータをGPSで録ってきました。


      セメントの路面は新しくなっていますが、風情のある坂です


       坂上の峠にGPSを置いてみました 峠の標高は60mぐらいのようです

あの坂を下って
 坂を下る途中、遠く縄地峠の方から下ってくる坂道が見えました。


             正面の山の右に縄地峠があります

後でそちらから下ろうと思っている坂道には名前がないようですが、峠から縄地の下条に一気に下る長い坂で、東浦路そのものです。集落を見下ろすよい景観を持つ坂です。


    その坂の途中に停まっている軽トラが、この後すごい出会いをもたらしてくれることになります

私が再び道標の文字を読んでいる時、軽トラで通りかかった男性が私を見て、

「あんた、歴史屋さん?」

と声をかけてきました。

歓迎されているのかされていないのか、微妙な声かけのしかたでしたが、縄地には時々、歴史を調べに来る人がいるような響きを感じました。ちょうどよいので、これから訪ねていく読者様のご実家の場所を尋ねて、教えてもらいました。名字ではなく、屋号で尋ねるとすぐ分かるようです。

 これで準備は整いましたので、車を旧道から縄地峠に向けて走らせ、東浦路を下って幅の広くなったところに停めました。ここからは坂を歩いて下ります。

坂道での思わぬ出会い
 かつては路線バスが通ったのに今ではすっかり通る車が減ってしまった旧国道135号線を走って、縄地と白浜の境になっている峠に行きました。
 峠の手前から坂を下って道幅が広いところに車を停め、歩いて下っていきますと、昭和期の縄地鉱山の事務所入口近くの畑で、2人の男性が畑仕事の手を休めて談笑していました。素通りするのはもったいないので、話に割り込んで、鉱山とはっつけ坂について聞いてみようと、話しかけてみました。


     下田側の東浦路の坂から見える景色 山肌が露出している部分が採石場です


            何やら人がいるようです

すると、思いの外詳しく話をしてくださり、貴重な情報をいただくことができました。差し障りのないようにして紹介します。


     お話を聞きながらの一枚

「縄地鉱山は、昭和8年ごろ、盛んに坑道を作らせて、夜昼なく掘らせた。昭和14年ごろは、隣国(注1)の人たちが200人ぐらい働いていた。」

「その中に1人か2人、日本語が分かる人がいた。その(畑の)下に宿舎があり、うちと近かったから、遊びに来る人もいたな。」

「鉱石を砕いた“ちょこ石”(注2)は、○○○(注3)にたくさん残っていた。でも若い衆が力石(注4)にして使ったものだから、少しずつなくなっていった。」
 

「1人1個か一軒に1個、ちょこ石があって、窪みが2つあるものだから、夫婦で鉱石を突いたとも言われているよ。」

「ちょこ石で砕いた鉱石は、さらに“皿石”(注5)に入れ、“擦り石”で擦って細かくした。それを最後はお椀に入れ、水ですすいで金をとった。」

「縄地金山の鉱脈は、漏斗(じょうご)のような形で斜めに入り込んでいる。だから採掘のしかたが他の鉱山と違う。(
注6
「 そのため、坑道の奥には鉱脈を野球場ぐらいの大きさに掘ったところがあり、2mぐらいの直径を持つ竜頭(
注7)があった。」

「掘った穴には、次に掘った穴から出たズリを埋めていった。坑内は蜂の巣のように坑道が巡っていて、切り羽がつながっていた。

「海に近い坑道(
注8)まで竪坑と横坑でつながっていた。入ると迷うが、水の出ている方へ行くと出られる。」

「掘り出した鉱石は貯鉱舎に貯めて、二千トンの船、“はくてつ丸”や“じょほう丸”(
注9)に積み込んで瀬戸内海の精錬島に運んだ。」

「坂は、“罪が坂”がある。トンネルを出たところから旧道へといく坂だ。はっつけ坂のことを言うんだ。」

注1 朝鮮のこと
注2 ひと抱えほどもある楕円形の石に2つ茶碗ぐらいの窪みを掘ってある
注3 あるお宅の屋号(伏字)
注4 力石=若者たちが力を競い合うために持ち上げた重い石
注5 砕いた鉱石をさらに粉末状にするための、皿のように底が平らになった石
注6 一般的に近代鉱山はトンネルを掘り進めて採掘しますが、縄地金山の掘り方は、
    鉱脈を追ってまるで岩盤に裂け目を作るように斜めに掘り下げていったそうです。
注7 りゅうず=ピラー=坑内が崩れないように、意図的に床と天井をつなぐように残した柱状の岩石
注8 鉱山事務所のある坑道から、の意
注9 貨物船か? 船名の漢字は不明

縄地では「罪が坂」と呼んでおり、それすなわち「はっつけ坂」であるらしいです。

 ちょこ石の存在は書物で読んで知っていましたし、実物が下田の弥治川河口近くの茶屋に展示してあります。でも縄地地内で保存されている石を見たことはありませんでしたので、話を聞く途中、石の所在を尋ね、見学を願い出てみました。

すると、

「ちょこ石か? うちの石垣にあるよ。見に行くか? なに、仕事はもう終わったからいいよ。車に乗りなよ。」

と快く引き受けてくれました。しかも見ず知らずの私を軽トラに乗せてくださると仰るのです。何とありがたいことではありませんか。
でも、お宅ははすぐ下だと言うので、すぐそこにあるのかと思いましたら、坂をずっと下って下条バス停から国道を横切って行きました。

 すると、庭に4つ、石垣の一部として使っているちょこ石がありました。書物に「鉱石を砕いた石が、石垣の一部として使われている」と書かれているのを読んだことがあるのでいつかその状態の石を見たいと思っていました。それが今まさに実現し、ねこ村の胸はわくわくするのでした。


           軽トラに乗せていただいて坂道を下る の図


下田にある“ちょこ石”
 ここでいつでも見られる“ちょこ石”を紹介します。
 下田市5丁目の弥治川河口、というよりペリーロードの海側入口と言った方が分かりやすいかもしれません。そこから海上保安庁の方へ行く道の傍らに1軒の茶屋があります。



その店先に、縄地から運んできた“ちょこ石”が展示してあります。



この茶屋の経営者は、杉本マス子さん。私よりちょっと年上かも。縄地金山の調査と研究をしており、既に研究成果をまとめた著書も出しています。

ちょこ石に開けられた2つの窪みがお分かりになるでしょう。この窪みに金鉱石を入れて、突き石で突いて細かくしたというのです。この石は常時展示してありますので(というより、ちょっとやそっとでは持ち上げられないくらい重いです)、下田においでの際はご覧になるとよいと思います。


           縄地のどこからもらってきたのでしょう?


 さてご主人のお宅では、複数個のちょこ石を保存してありました。文献にあるちょこ石の生の姿をようやく見ることができ、積年の願いが実現した思いがしました。


    こんな形で“ちょこ石”が保存されているとは…

一方、「皿石は持っていない」ということでしたが、擦り石は保存してありました。

片手で持てるくらいの大きさの擦り石は、見事にすり減っています。


  ここまで石をすり減らしたのが、慶長時代の人の手だとは!

400年前の鉱山で用いられた石が実際に残っているのは、奇跡だと思いました。本当に、よくぞ捨てられずに伝えられ、残っていたものです。その石は、坑夫の手によっておむすびのような形にすり減っており、擦った面は実になめらかなになっていました。

いったい何千回、いえ何万回、いや何千万回、皿石の上を往復すればこのようにすり減るのでしょう。
きっとこれらの石は、金色に輝く黄金の粒も、金山を経営する大久保石見守長安の姿も、馬に乗ったまま坑道内部の様子を見て回ったという大名も、八千軒あったという家々も、はっつけ坂の途中で磔にあった罪人の涙も、バンタ石の上で仕置きされた罪人の赤い血も、そしてしまいには焼き討ちにあって落合の方へ逃げていく関係者達の後ろ姿も見ていたのでしょう。

思わぬ所でねこ村の心は江戸時代にタイムスリップし、歓喜と感激に打ち震えるのでした。話が聞けてよかったです、ホントに。

でも、1軒に1個のはずのちょこ石がなぜ4つも5つもあるのか尋ねましたら、

「よその家からもらってきたり川で拾ったりして集めたからさ。」

とのことでした。

「でも重いでしょ、一人で運んだんですか?」

と聞くと、

「私は仕事柄、石に関心があったんだよ。」

とのことでした。そして庭に置いてある石を指し示して、

「金はこういう石(灰色をした安山岩)石には含まれていなくて、そういう石(赤っぽい筋模様のある花崗岩)に入っているんだ。」

と教えてくれました。

これらのちょこ石と擦り石は、博物館に展示するべき貴重な品だと思います。

そしてねこ村は思います。この地に関心を持ったとしても、決して縄地まで行ってこちらのお宅を探したり「その石、譲ってください」などと言わないでほしいと思います。私はそのように言う立場にないのですが、貴重な歴史遺産が失われてしてしまわないために、ぜひお願いします。


次回、いよいよ消えたバンタ石の謎が解き明かされます。


     縄地 麹坂のバンタ石を探せ〜その4(最終章)に続く

                                             
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