葉
天川の広尾峠を行く
 探訪2002年12月26日  
 
 川端康成『伊豆の踊子』に、こんな一節があります。


 秋空が晴れすぎたためか、日に近い海は春のように霞んでいた。ここから下田まで五里歩くのだった。暫くの間海が見え隠れしていた。千代子はのんびりと歌を歌い出した。
 途中で少し険しいが二十町ばかり近い山越えの間道を行くか、楽な本街道を行くかと言われた時に、私は勿論近路を選んだ。


 河津の湯ヶ野温泉を出発した一行は、河津側の右岸に渡り、今の国道414号線を下田に向かって歩き始めました。
 その先に、バス停「天川(あまかわ)」の辺りから山に入り、河津町・逆川の集落に至る峠道があります。踊子一行は、そちらを進んだのです。

 バス停近くに、国道から斜め上に山に入るセメント舗装の道があります。これはたぶん後から作られた林道でしょう。入り口に「11/10 ツーデーマーチ」と書かれた小さな標識が2つありました。ツーデーマーチのコースになっていたんですね。それなら大丈夫。きっと行けます。

 踊子一行が歩いた本当の街道は、林道入り口から50mほど下田寄りにあります。携帯電話の中継塔の敷地に接しています。地面をU字に掘り下げて作ったような道で、昼でも暗いので、ちょっと心細くなります。でもためらわずに登っていきましょう。さっきの林道とすぐにつながります。

          林道の入り口                          その向こうの本当の街道入り口

 道は時々林道と接したり分かれたりしながら登っていきます。林道はくねくねと曲がっていますが、街道はほぼ真っ直ぐ登っていきます。辺りはみかん畑で、おばさんの運転する軽トラも走っています。一部のみかんは、無惨にもヒヨドリに食いつつかれていました。
 おや、これは、三輪トラックの残骸ではありませんか。珍しい! よく見ますと、昔一番売れたマツダのそれではないようです。全長が小さいので、他のメーカーの車でしょう。きっとお役ご免になって捨てられたのでしょうね。田舎だなあ〜。

 さて街道はこのトラックを見てすぐに林道を横切るのですが、そこからはもう入れないと思います。低い切り通しのようになってはいるものの、枯れた夏草にひどく覆われているからです。私も入らず、林道を歩きました。景色のよいところもありますので、そちらの方がよいでしょう。蜜柑畑の際から、鉢の山や天城峠方面がよく見渡すことができました。

        出たー、お化け! ではありません          遠くに望む天城連山 踊子一行はあちらからやってきたのです


 落葉で辷りそうな胸先上りの木下路だった。息が苦しいものだから、却ってやけ半分に私は膝頭を掌でつき伸ばすようにして足を早めた。


 なるほど、これはかなり険しい道です。「辷りそうな」は、「すべりそうな」と読むんですね。知らなかった…。険しさは、二本杉峠の大川端側の登りと同じくらい…、と言えば分かっていただけるでしょうか。


            かなり険しい登りです

 この辺りを、「私」と踊子はこんな風に登っていきました。


 見る見るうちに一行は後れてしまって、話し声だけが木の中から聞こえるようになった。踊子が一人裾を高く掲げて、とっとっと私についてくるのだった。一間程うしろを歩いて、その間隔を縮めようとも伸そうともしなかった。私が振り返って話しかけると、驚いたように微笑みながら立ち止って返事をする。踊り子が話しかけた時に、追いつかせるつもりで待っていると、彼女はやはり足を止めてしまって、私が歩き出すまで歩かない。路が折れ曲って一層険しくなるあたりから益々足を急がせると、踊子は相変わらず一間うしろを一心に登って来る。山は静かだった。


 旅の荷物を背負っての上りは、かなりきつかったに違いありません。でも、「私」は踊子と一緒に歩いていたので、それもまた一つの面白みになっていたようです。
 街道は山肌を右に左に折れながら登っていきます。今日は風がないので、冬の服装では暑いです。上着を脱いでいくことにしました。遙か上空を行く飛行機の音が降ってきます。

 なんだか前方が明るくなってきました。峠が近いのでしょう。やがて目の前に石組みが見え、道はその前で左に曲がります。すると向こうに電線が斜めに掛けてあるのが見えます。電気も近道をしているのですね。ここで午前11時を知らせる河津町の広報が鳴り響きました。電線の手前で道は右に折れて、いきなり視界が開けました。おお、ここが峠ですか。おや、峠によくあるお地蔵様が、ここにもあります。手前の祠に4つ、向こうの祠に一つあります。こんな低い峠でも、旅の安全を祈る人々の思いは同じなんですね。腕時計を見ますと、街道入り口からここまで22分間で来たことを針は示しています。

 
                    峠 の 様 子 

 山の頂上へ出た。踊子は枯れ草の中の腰掛けに太鼓を下すと手巾で汗を拭いた。


 ああ、ここで踊子達が一休みしたのです。感無量です。踊子はどの辺りに腰を下ろしたのでしょうか…。「手巾」は「ハンカチ」と読ませています。

 お地蔵様を見ますと、手前の祠の4つはいずれも丸彫単立像で、銘は見られません。高さはいずれも50cmほど。祠の内側に黒マジックで「平成四年四月 天川区 久保建設」と記してあります。工事のおじさん達が作ったのかな? もう一つ、向こう側にある祠のお地蔵様は舟形光背を持つ浮彫単立像で、文政十二寅年(1829年)十二月十二日と銘があります。光背の上部が欠けています。その隣は「文化十二亥年 春量禅者 十二月二日」という銘のある石塔です。お墓でしょうか。


          手前の祠のお地蔵様

 峠には、他に石造物などは見られませんでした。辺りは檜林で、ウラジロの茂みがあります。踊子の歩いた時代はもっと山がすっきりしていたことでしょうね。
 転がっていたワンカップの空き瓶をお地蔵様の前に立て、熱いそば茶を注いで手を合わせました。さあ、ここから下って向こう側に下りることにしましょう。一体どこに出るのでしょうか…。

 下り道もかなり急です。倒木もありますが、歩きにくくはありません。


                下り道の様子

 途中の道ばたに、古びた男物のリュックと長靴、上着、ビニールの敷物などがひとかたまりに残されて半分落ち葉に埋まっています。(ギョッ!)と思って辺りの木の上を見てみましたが…、何もぶら下がっていませんでした。ホッ…。

 下りは私と栄吉がわざと後れてゆっくり話しながら出発した。二町ばかり歩くと、下から踊子が走ってきた。
「この下に泉があるんです。大急ぎでいらして下さいって、飲まずに待っていますから。」
水と聞いて私は走った。木蔭の岩の間から清水が湧いていた。泉のぐるりに女達が立っていた。


 確かにそれらしき泉が涸れ沢にあります。が、今は井戸のように使われているらしく、コンクリートの丸管で水を溜めているようでした。

 下り始めて間もないのに、木々の間に集落の白い壁が見え隠れしています。峠の下田側は案外近いようです。と、いきなり目の前に落石防護ネットと民家の裏が見えました。下まで下りてみますと、おお、ここは河津・逆川地区のどん詰まりのお宅です。ここに出るんだったんですねー。峠からここまで、わずか12分でした。国道をてくてく歩くより、距離も時間も大幅な短縮になっています。


        河津町・逆川から下田方面を見る

 その山を下りて下田街道に出ると、炭焼の煙が幾つも見えた。路傍の材木に腰を下して休んだ。踊子は道にしゃがみながら、桃色の櫛で犬のむく毛を梳いてやっていた。
「歯が折れるじゃないか。」とおふくろがたしなめた。
「いいの。下田で新しいのを買うもの。」
 湯ヶ野にいる時から私は、この前髪に挿した櫛をもらって行くつもりだったので、犬の毛を梳くのはいけないと思った。


 明治時代の地図によりますと、ここから現国道を横切って真っ直ぐ山に入り、稜線を落合まで行く道が見えるのですが、国道まで上ってもそれらしき取り付き口は見当たりませんでした。

 踊子一行はここで街道に出て、拾った竹の杖を振り振り下田まで歩いて行きました。私は来た道をとって返し、帰路につきます。ああ、またあの淋しい道を歩くのです。誰かと一緒ならいいのになあ…。
                                             
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